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涙唄

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涙唄

響く響く、かなしい唄が――…

○  。  ○  。  ○
 ある青年がいました。彼は暗い暗い海の真ん中を、たった一人で先へ先へと泳いでいました。ただ只管に、彼は泳いでいるのです。
 その青年には、心から愛する女性がいました。彼女もまた、青年のことを大変に愛しています。彼らは将来を共に歩みたいと思っていました。けれど、彼女の親族の一人が彼らの幸せを阻みました。青年が、大事な彼女の伴侶となることを赦さなかったのです。二人は悩みました。どうすれば共になれるか、とてもとても考えます。そんな彼らの姿を知ってか知らずか、あの親族の者が変に優しい声色をして青年に囁きます。
「この広大な海を、あの水平線まで泳いで還ってくることができたら、彼女との結婚を赦 してやろう」
青年は体力には自信があったため、それくらいで彼女と一緒になれるのならと二つ返事で条件を受け入れました。
 大きな弓のように尖った月がぽかんと黒い空に浮かぶ夜、青年は彼女のために、自分のために、幸せのために、彼を飲み込まんと巨大な口を開いているかのような真っ黒の海へ、その身一つっきりで飛び出しました。
 夜の海は手足を掴んで離すまいといわんばかりに冷たく、果てがないように見えます。それでも青年は腕を、脚を動かし続けます。バシャン、バシャンと撥ねる水の音と飛沫を、淡々と月が見つめていました。昼間はあんなにも清々しい気持ちにさせてくれる空は、今は彼に圧力をかけるかのように重たい色をして、青年を眺めていました。彼を見ていたのはそれだけではありません。青年が体を預ける海のずっと奥深くで、小さな音が波紋のようにふわりふわりと現われては消えていきます。それは唄でした。その唄の主も、青年の懸命な姿を見ています。誰にも聴こえないくらいの小さな小さな唄を謡いながら。
 暗く静かな海を泳ぐ青年の後方に、唄の主は何かが光るのを目にしました。その光は物凄い速さで、青年の方へと向かっています。月から放たれた輝きのようなそれは、青年に向けて放たれた矢でした。主はびっくりして青年にそのことを知らせようとしました。しかし主ははたと困りました。自分は唄を謡うことしかできない、これでは彼にその身の危機を報せることができない。主はほろりと涙を零します。謡うことしかできない主は、届けと願いながら、やっぱり謡うことしかできないのです。
(おねがい、とどいて。あぶないわ)
彼女の声は喋るためではなく奏でるためにあるのです。彼女の喉は会話のためではなく唄のためにあるのです。
 海の底から響く音に気が付いた青年は、この世のものではないその美しさにそれがすぐに海底の歌姫の声であることが判りました。彼女の歌声に魅了された者は、海から決して還ることができなくなると言われているその唄を、彼は聴くものかと水を掻いていた手を止めてしっかりと耳を塞ぎました。
「海の魔物め、お前の思い通りになどならないぞ」
何処に居るとも知れぬ海の住人に、彼は高らかにそしてきっぱりと言いました。その次の瞬間、空気が焼き切れそうなほどの勢いで飛んできた銀色に輝く矢が青年の体を背中から貫きました。歌姫の警告も虚しく、青年は彼の胸から突き出た矢を自身の鮮血で艶やかに彩りながら、水平線をその明るい瞳に最期に映し、動かなくなりました。
 青年から零れた紅い雫は、ゆっくりと海の蒼と混じっていきます。海底の歌姫は余りの胸の痛みと哀しみに涙を溢れさせます。泣き声となるべき音はやはり唄にしかならず、涙に染まったその唄でさえ美しさを欠くことなく天にまで響きます。その悲劇の唄にいざなわれるかのように、その夜は稀に見る激しい嵐が吹き荒れ、波を怒らせました。泣き喚くような嵐を起こす雲の隙間から覗く月は、何事もなかったかのように鈍く光り、荒れ狂う風に撫でられて沈んでいく青年の体を見つめていました。
○  。  ○  。  ○
ある男がいました。彼は訴えています。広々と残酷なまでに淡々と何処までも続いている海に向かって、ただ只管に訴えていました。
 男には、影と形のような唯一無二の親友がいました。いつから一緒に居たか判らないくらい、長い間彼らは共に過ごし、共に経験をし、天をも超える程の高い信頼を積み上げました。その親友に愛する人ができた時、男は心から喜び、祝福したものです。そんな幸せいっぱいな筈の親友が、最近悩んでいることを男は知っていました。けれど彼は親友に何も訊くことはしません。もし彼が聞いて欲しいのならば、何も言わなくても男のもとを訪れるだろうと思っていたからです。彼のもとに相談に来ないのは、恐らく自分自身で考えて結論を出すべきことだと友が思っているのだろうとも男は考えていました。
 ある日の朝、男は久しぶりに俯いておらず、すっきりとした表情をしている友を見かけました。きっと悩みの答が出たか解決したのだ、男はそう感じ取りました。
「よう、最近ずっと腑抜けた顔をしていたが、彼女を怒らせでもしたのか」
「まさか。それに顔の造りだけなら人のこと言えた面か」
「ははっ、違いないな」
男の冗談への切り返しも、全く以ていつも通りのものでした。親友の普段と変わらぬ様子に男は安堵し、また釣りにでも行こうと笑い合い、彼と別れました。
 しかし、軽く手を挙げ笑った彼の晴れ晴れとした笑顔とは裏腹に、その夜は近年稀に見るそれはそれは酷い嵐が彼らの町のすぐ傍の海で暴れていました。そしてその日を境に、男は親友の姿を見なくなりました。何があったのかと親友の恋人のもとを訪れ訊ね掛けてみましたが、彼女は何も言わず、光の反射で銀色に見える涙を止め処なく零し続けながら、ただふるふると首を振るのみでした。男は考えます。彼の身に何が起きたのかを。目を閉じて思案する彼の脳裏には、ひとつの風景が過ぎりました。大きくうねる波に、水飛沫を散らさせる暴風。つんざくような雷の光と音。
「そうか」
男は悟りました。海に住むあの魔物がまたとない親友を奪ったのだと。あの魔物の、皮肉なまでに美しい歌声に、友は魅入られてしまったのだと。
 その夜、男は小さなハープを片手に猫を被ったように静かな海へと向かいました。男の耳には魔物の唄を聴こえないようにするために蝋が詰められていました。
 暗く静寂に満たされ、まるで一枚の絵画のように時が静止しているかのように見える海には、男が水を掻く泡と音が広がります。ある程度深くまで潜ると男は手にしていたハープを軽く弾きました。男はハープの名手でした。ハープの音に言葉を乗せて、男はこの海の何処かにいる魔物へと訴えました。お前は俺の友を奪った。何故命を奪う唄など謡うのだ。彼はハープの音を送り続けました。何度か弾いては海面に出て息をして、また潜りハープを弾く。暫くそうしていると、海中に彼の音が織り成すのとは異なる振動が伝わってきました。
(彼は、月の矢に射(う)たれたの)
振動は、確かに男にそう伝えてきたのです。それが魔物の唄によってできた振動なのだと彼にはすぐに判りました。何をふざけたことを、そんな嘘に俺は騙されなどしない。奴がいなくなった夜、お前の呼んだ嵐がきていたではないか。再び男はハープを弾きます。
作品名:涙唄 作家名:@望