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一分間の密室

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別段急いでいたわけではない。梅雨入りも間近なこの季節、じっとりと湿って生温い空気
が肌にまとわりつく。滲む汗を手の甲で拭いながら正面に立つと、音も立てずに自動ドア
が開く。建物の中はさすが空調が良い仕事をしており、途端にひんやりと冷気がシャツを
まくって剥き出しになっている腕を包み込む。エントランスの先にはエレベーターが二基
ある。自分の部署は5階で、着くのが遅いエレベーターを待つよりは、といつもは若者ら
しく階段を駆け上がっていた。急いでいたわけではないのだ。外回りから帰ってきたとこ
ろで疲れていたというわけでもない。ただ、一基のエレベーターがたったいま、俺の目の
前で閉じようとしていたから。ラッシュ時の満員電車に飛び乗るサラリーマンの習性とい
うやつだ。タイミングがよかった。ただそれだけ。

>>一分間の密室

「すみません、乗ります!」

閉まりかける扉に手を掛けると反射的に開くのも電車の扉と同じだ。何度か駆け込み乗車
は経験したことがあるけれど、閉まるドアに挟まれる感覚というのは何度経験しても慣れ
ない。いや、こんなことに慣れたくはないのだけれど。馬鹿馬鹿しいことを考えながらも
ちゃんと体はエレベーター内に滑り込んでいる。体が覚えているというやつか。走って乱
れた息を肩でいなす。落ちた視線の先には男物の靴一人分。エレベーターの中で知らない
人と二人きりというのは中々に気まずいものだ。きっと誰もが思っていることだろう。け
れど気付かなかった。その靴の持ち主が俺の来訪に息をつめたことを。

見知らぬ人ではなかった。だれよりも知っている、正しくは知っていた、けれど知らない
他人になった、別れた恋人が唇を固く結んで立っていた。

ほとんど自然消滅のようなものだった。部署も違えば行動範囲も休憩時間も違う。気付け
ば毎日していた電話が一日おきになり、三日、一週間、終いにはメールすら交わさなくな
った。喧嘩なんてした覚えはないし、どちらかが心変わりしたわけでもない。すれ違って
いたのに、ただ、どちらも修正しようとしなかったからだ。

「…何階」
「あ、ご、5階」

ドアが閉まります。上へ参ります。無機質な女性の声が告げる。ゆっくり。とてもゆっく
りと密室は上昇していく。月並みな表現だけれど、まるで永遠のようだった。それほどに
ゆっくりと進んでいく。階数表示はいつになっても2階から3階へと移り変わらない。け
れど相反する感情に心は振れてもいた。このまま、もしエレベーターが停まってしまった
らどうなるだろう。一瞬は永遠へと変わる。どちらを望んでいるのだろう、俺は、お前は
?かりそめの永遠の中、思考は深く沈んでいく。遡っていく。出会いはただの偶然だった
。学生時代でもあるまいし、律儀に告白してお付き合いなんて段階は踏まなかった。気付
けば好きだった。気付けば飲みに行った帰り道、暗闇の中何度もキスをした。会う回数が
少なくなったのはいつからだっただろう。明日返信すればいいやと携帯を閉じたのは、返
信がなくても気にならなくなったのは。いつ、どこで俺たちはすれ違ってしまったんだろ
う。思考の沼から抜け出すように顔を跳ね上げる。目の前には向けられた背中。その頭上
では表示が3階へと移ったところだった。

「…なあ、もう一度、」

ポーン。4階です。ドアが開きます。まだ5階に着いていないのになぜ扉が開くんだろう
。機械の声を聞きながら不思議に思う。ああそうか、あいつはここで降りるんだ。昼休み
帰り、二人で階段を上りながらお前は一階分少なくて羨ましいないや運動になっていいだ
ろなんて交わしたことを覚えている。覚えていたのに。やはり一瞬は一瞬でしかないのだ
。呆然と立ち尽くす俺にその背中は振り返った。それは自嘲的でけれども今にも泣きそう
な笑顔だった。

「タイムアウトだ、彰浩」

音も立てずにドアが閉まる。エレベーターの中は静かだ。まるで最初から自分一人しか乗
っていなかったみたいに。時間切れ。一瞬は一瞬のうちに過ぎていってしまった。もう戻
ることはない。タイムアウト。すれ違った時間は帰ってくることはない。それは最後宣告
だった。



5階に着いても俺はその場から動くことができなかった。ドアが閉まります。冷たい声が
エレベーターの中に響いていた。



end.



攻→彰浩、受→陽平、新入社員同士 というどうでもいい設定があります
作品名:一分間の密室 作家名:こころ