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ガーデン

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雨はもう止んでいた。森中の木々がその葉の一枚一枚から小さくて透明な水滴をぽたぽたと垂らしている。森のさらに深いところへの寂しげな入り口。まともな道はここで切れている。古くて太い木が多く、かつては山道が横切っていたはずの場所も今では黒々とした雑草に埋め尽くされ、中を歩けば時おり白い木漏れ日が気まぐれのように差し込んでくれる以外は闇に囚われたごとく、外から見れば黒い塊が行く手を阻むかのごとくに感じられる。水滴は、黒い森の大きな生き物がその血管から吹き出させる血潮であり、また葉脈から沸き立つ汗のようでもあった。風に揺れた葉の擦れ合う音や、得体の知れない鳥の囀り、蠢く虫たちのざわめきや、どこかで落下した木の実が腐葉をたたく音、朽木の陰で強かに芽吹く若木の呼吸など、雑多で統一をみない様々な音素が、ごうごうと地の底――今や寄りつく人間の姿を見ない地図に載らぬ死んだ山の腹の中――から鳴り響くひとつの轟音、単一の威圧的な音の塊となって、森を、山を、静かに震わせている。

 山の斜面のなだらかなところ、雑木の背が僅かに低く、腐葉と朽木の狭間からほんの一欠片ほど、人工的な石畳の面影を見いだすことができるような獣道があって、それを上へ下へと辿っても、一向に道と呼べるようなところには繋がらないが、しかし少し離れて目を凝らせば、確かにそこには頼りなく断続する細い線を認めることが出来る。獣が踏み固めたにしてはその線ははっきりとしすぎているし、地図を持った人間が常の交通のために作ったにしては細すぎる道だ。ここを踏み固めたものがいるとすれば、それは地図を持たない人間か、地図を書こうとする人間だけだっただろう。その線の途上、山の中腹のあたり、それまで登るばかりだった道が少しだけなだらかな、台地のようになった場所があった。斜面の道から台地の方向をみれば木々はより一層生い茂っていて、しかもそこに踏み入ろうとすれば、山頂へと続く線から枝分かれしたさらに頼りない脇道のような、もはや線ともいえない”藪の間隙の破線”へと足を踏み出さねばならず、この陰鬱な森のなおいっそう深く暗い、それは黒い蠢く塊の胃袋のようだ。その胃袋の入り口、黒い口腔のような藪の隅の方に、森の蠢く塊のつるつるとした歯が、不揃いな歯並びで打ち捨てられるように並んでいる。ふくよかに湾曲しそれ自身ぽっかり天に向かって口を開けた、粘土で出来た黒茶色の歯は、三つ寄り添うように藪の陰に潜んでおり、まん丸い口の中にはなみなみと水を湛えている。水面は決して静かではなく、時折降り注ぐ水滴や、山の腹の底から響く轟きに揺さぶられて、細かく踊るように震えている。水は清らかで、濁りがなく、黒々とした底の方に入り込んだ蔦の姿が暗がりにおいてでさえおぼろげに見えた。今一度高木の葉が水滴を降らし、水面に叩きつけられると、水は激しく踊り、俄にある強い力に引きずられてぐわっと宙に舞い上がって、ある雫は零れおち、ある水滴は小さな水溜まりを成して空を飛んだかと思うと、雲間から覗き木漏れ日となった緑の光に目のくらむうち、今度は磁器のような白く小振りの歯に叩きつけられ、赤黒い口腔のなかに吸い込まれていった。水はあまりにも透明で甘く、口腔の中では周囲の色に染まる。

 冷たい水が腹の底にまで染みこんでいくのを感じながら、彼女は甕からぐっと身を起こすと、水に濡れた口元を素手で拭ったついでに白い額の汗も拭った。僅かに息が荒い。汗ばんだ栗色の髪を清らかな水で撫でつける。水滴が、青林檎色のブラウスの首もとに染みをつける。だがじきに、汗でわからなくなってしまうだろう。大きく息をついて周囲を見渡した。それからもう一度かがんで、少しだけ苔むした黒い甕を撫でつけると、見知った通りを往くような足取りで再び台地の方へと歩き出した。

 舎密民俗学などと論文には銘打たれても、世の人に問えばオカルト民話マニアとしか言われないような、珍妙な立場に身を置いてしまったのは人生の成り行きであるとはいえ、まだ若いうちに資料館の助教授という世にも通りの良い肩書きを得ることが出来たのは、ひとえにそのオカルト民話のおかげだった。山を下れば、街往く人々はエヴィデントな魔法に酔いしれている。セルロイドの人形に魂が吹き込まれるようなおとぎ話も、彼らは明晰な研究書の解説とともに享受出来るようになりつつあるし、山の下ではすべてが明るく、はっきりしていて、そんな日なたでかつてのヘカテやマーリンたちの見たものと同じ夢を、来季に流行ると予告された新しいファッションのように追い求めることが出来るのだ。彼女は決して、それに背を向けたわけではなかった。むしろ彼女はその中にこそ生きていた。来週になれば、いつもの編集者がこう言うだろう――小白川センセイ、また新しいエッセイをよろしくお願いします。

 それでも彼女は、朝のスターバックスで飲む紙コップ入りのコーヒーと同じくらいに、黒い口唇の奥、黒い森の塊が覆い隠した陰鬱な台地の世界を好んでいた。いつも持ち歩いている古びたスクラップ帳はいつだって、人を不安にさせるような怪しげな小話で満ちあふれている。そのなかのいくつかを、彼女は自分の目で見知っていたが、そのほかのほとんどは噂の域を出ないようなものだ。多くの話者たちは、日向をおそれている。エヴィデントな世界、彼らの物語に青いトンボや罫線が引かれてしまう場所を、彼らは時に嫌悪する。”小白川センセイ”が彼らの声に耳を傾けるのは、興味本位の好奇心からだろうか? 彼女が舎密民俗学の研究者だからだろうか? それとも、かつての境遇がそうさせるのか? 人が暗がりを不安に思うのは、その奥が見通せないからだ。人が暗がりで安心するのは、暗がりに自分の姿を隠せるからだ。罫線もページ付けも、日付すらない彼女のスクラップ帳は、どの順番で読めばいいのか、本人すらわからなくなってしまった――友人は彼女の無精を笑う。けれども彼女は、聞き知った"オカルト"なことを一字一句逃さず書き起こさずにはいられなかった。書き起こしたところで、論文には載らない。エヴィデントはオカルトを回収できない。オカルトはエヴィデントに勝利しない。話者が不気味な頑なさを以て自分の物語が書き写されることを嫌っても、彼女の筆は動いてしまっていた。
作品名:ガーデン 作家名:不見湍