セカンドラブ・シンドローム
九時過ぎに起きてカーテンを開けると、強い陽射しと初夏の湿った風が二日酔いの体を責め立てた。悪い酔い方をしたつもりは無かったのに、重金属みたいな頭痛が頭の芯にからみついている。金曜は大学もバイトも休みだが、とても何かをするという気分にはなれなかった。
罰が当たったんだ、と僕は思った。冷静に思い出すにつけ、昨日の夏菜子に対する振る舞いは酷いものだった。昨日だけじゃない。これまでも度々、彼女に対しては素っ気ない態度を取ってきたのだろう。
いや。素っ気ない、と言うのは正確じゃない。僕は夏菜子に対して、並以上に親密に、また敬意をもって、好意的に接してきている。それが決定的な場面……二人の関係を進展させるかも知れない場面に至ると、僕の心の扉はすごい早さで閉ざされてしまって、その重い扉は完全に夏菜子を閉め出してしまう。おびき寄せた野良犬を蹴り飛ばす非行少年と同じように、そんな僕の振る舞いは夏菜子を余計に傷付けていたに違いなかった。
僕は夏菜子の深い絶望を思う。
あの、頭も性格も悪そうな男が運転するタクシーを降りて、夏菜子はどうしただろうか。
酔った体を、彼女はたぶん醒めた頭で引きずって、誰も待たない部屋の鍵を開けただろう。それから洗面所に向かって、鏡を見て「ひどい顔だ」なんて苦笑したのだろうか。それとも、灯りもつけずにベッドに倒れ込んだだろうか。どちらにしろ、あの夏菜子のことだ。そのまま陽が昇るまで泣いたに違いなかった。下手をすれば、まだ泣いているかも知れない。
そう思うと居ても立ってもいられなかった。今すぐにでも夏菜子の家に押し掛けて、後ろからそっと抱きしめてやりたかった。けれどもその一秒先を想像しようとすると、ひどい胸騒ぎが僕を襲った。いつだってそうなのだ。
世界で一番親密で愛しい女の子を、僕は受け容れられずにいる。
夕方になって、ようやく何か行動しようという気になってきた。と言っても何かするべき事があったわけではないから、行きつけの喫茶店で軽く食事をとることにした。
『ダンシング・エレファント』は駅前商店街のはずれにあって、紅茶の種類の豊富さが売りの喫茶店だ。ただ、僕がここへ通うのはそれだけが理由ではないのだが。
もはや指定席となってしまったカウンターの隅に陣取って、僕はハム&チーズのサンドイッチをリプトンクラシカルのストレートで腹に流し込みながら、昨晩夏菜子を前にしてフラッシュバックした光景を思い浮かべた。古い記憶だ。
高校の卒業式だから、もう二年以上も前のことになる。
当時僕には好きな人がいて、彼女は優子という名前だった。高校三年間ずっと思いを秘めていて卒業式に告白、とか、そんなドラマチックなもんじゃない。最後の文化祭で接近したのをきっかけに日常的に話す友達になった。内気で不器用な僕なりにアプローチを続けた結果、「そろそろ」と言う時期が偶然卒業式に重なってしまったのだった。二人の関係は悪くなかったと思う。もしもどちらかが二人の間にあるドアをノックしていたら、かなりの確率でドアの鍵はカチャリと開けられただろう。何らかの力が働いて、二人ともそうしなかっただけだ。結局、最後のチャンスだった卒業式のあの日も……。
……もうやめよう。
そこまで考えて僕は強く頭を振った。こんなふうに考える事自体、夏菜子に対して失礼な気がした。
「こら、相沢陵!」
「あいたっ」
お盆か何かで後頭部を叩かれて、僕は振り向いた。
「純ネエ……」
「どしたのよ、さっきから見てればダメな修行僧みたいな顔しちゃってさあ。そういうのを上の空っていうのよ」
そう言って威勢良く笑うのは、純子さんだ。店名入りエプロンを掛けた威勢のいい彼女はここの店員で、若い常連客の間では「純ネエ」で通っている。僕がここへ通う理由というのも、実は彼女だ。三十路過ぎの未亡人である彼女に恋愛感情を抱いているわけではない。純ネエは恋に悩める子羊達のカウンセリングを請け負う、名前の通りみんなの姉さん役なのだ。こういう僕も、夏菜子のことで何度か相談に乗ってもらっている。
「実はですね……」
僕は昨晩のことをあらかた話して聞かせた。勤務中にもかかわらず、純ネエは隣りに腰掛けてじっくりと話を聞いてくれた。世間的にそれをサボタージュとも言うが、カウンターの奥のマスターは『こまっちゃうなぁ、もう』という顔をしただけでお咎めはなかった。彼女の存在自体が集客効果を持っているのだから無理もない。
「ふむふむ」
と純ネエは腕組みをして、いつものように大仰に頷いた。
「夏菜子ちゃんとの恋が進展しそうになると、相沢陵は初恋の相手を思い出してしまうと、そういうわけね」
「そういうわけです」
と僕は答えた。ちなみに彼女にフルネームで呼ばれるようになれば常連として一人前だ。
「でも初恋の相手を、と言うよりはもっと具体的なシーンとか、会話とか……そう言う経験がフラッシュバックしてくる感じなんです」
「なるほど。で、そうなるともう夏菜子ちゃんどころではなくなってしまう」
「……ええ、まあ……そうです」
「単純にその失恋の傷がまだ癒えてないってことかしらね?」
「や、だから失恋じゃないんですって」
力いっぱい『失恋』を否定してしまって、やっぱりな、と自分で思った。やはり問題はこの周辺にあるのだ。
「というと?」
「別に僕は優子に告白したわけでもないし、フラれたわけでもないんです。……だからかも知れない。卒業式のあの日声をかけて、優子に告白してたら今ごろ……って思いが、俺の中にはずっとある訳なんです」
「うむむ……ちょっと考えさせてね」
そう言って純ネエは目を閉じた。たっぷり二分は沈黙が続いて、彼女は顔を上げた。
「つまり、言い方は悪いかもしれないけれど、相沢陵はまだ初恋の優子ちゃんに告白を断られた訳でもないのに他の女に手を出して、彼女との恋が成就する可能性を消したくないのね。一%でも可能性があるなら、それに賭けてみたいと心の底では考えている……違うかしら?」
「んー……」
今度は僕が考え込む番だった。
彼女が彼女なりの言葉で表現したものは、とりあえず正解だった。そんな、優子に対する執着心が僕にはまだくすぶっているのだろう。
しかし、僕が未だに優子に恋愛感情を抱いているかというと、それはそれで微妙なところだ。そもそも優子とは二年以上も会っていないわけだし、そこで『今でも好きだ』なんて言ったところでそんなのは虚実の実がすっぽ抜けた感情の抜け殻でしかない。
だから結局、その抜け殻を背負って僕は今を生きているのだろうと思う。納得のいく形で精算できなかった初恋の思い出が、鎖になって僕の心を雁字搦めにしてしまっている。日常的な言葉で言うならそんなところだった。
「ある意味ではその通りです」と僕は答えた。「けど、これはもう恋愛どうこうという問題ではないんです。『初恋』そのものの影が、うまく消化されないで僕の体内に残ってる。ちょうど、因数分解しかけの数式みたいに中途半端で不安定な形のままで」
作品名:セカンドラブ・シンドローム 作家名:めろ