【リリなの】Nameless Ghost
遷章 第三話 Hope
気温と湿度が一定に保たれ、照明さえも暗く落とされた無重力空間はそこに漂う者に安らぎを与えはしない。
ただ静かに、時折書籍検索のための簡易デバイスが機械的な音を立てて動く以外には何の音もない空間だ。
莫大な広さと深さを持つ円筒の外郭に据え付けられる本棚。そのちょうど中心あたりに円環状に鎮座する巨大なサーバーマシン。
いったい、この空間にはどれほどの書物が埋葬されているのか。そもそも、この書庫はいったいどれほどの広さを持つのか。
無限の名を持つ通り、その姿はクラインのツボのごとく無限に空間を内包しているのか。それとも、人の感覚にして無限に近似できるほどの広さを持つ有限な空間なのか。
隣接する本局施設とは異なり、書物の保全のために人工的な重力を発生させていない空間は人間が生きる場所としては作られていない。
この世界に住まう物は書物であり、情報であり、人という要素はそれよりも優先度は低く設定されている。
(そう考えると、人間って言うのはつくづく進化がないよね)
人は重力がなければ生きていけない。太陽の光がなければ身体に異常を来す。生殖機能や呼吸機能にも支障を来し、果てには重力ある空間に戻れば立って歩けなくなるほど衰弱してしまう。
次元航行の開闢時代を遙かに過去のものとして繁栄の頂点にあるこの世界においても、人々はわざわざ貴重なエネルギーを消費して擬似的な重力と自然光に近い照明サイクルを構築しなければならないのだ。
(人間は宇宙や次元空間で生きるようには出来ていない……か)
いつかリンディと語り合ったことを再び思い出し、アリシアは人のあり方そのものを嘲笑するかのようにそっと口の端を持ち上げた。
無限書庫には重力がない、自然光もない、サーカディアンリズムを整えるための照明サイクルも存在しない。それならば、まるでここは次元空間そのものだと感じるのも無理はないことだ。
アリシアはまるでモニュメントのように備えられたサーバーマシンのてっぺんに腰を下ろしながらひっきりなしに開いては閉じるコンソールを眺め回し、足を組んでため息をついた。
「やっぱり、永久凍結しか方法はないのかな」
アリシアはレモン味の禁煙パイポを口から外し、吐息とともに酸味の強い蒸気を吐き出した。
可燃物の多い書庫で火を扱うことは厳禁だ。さらに言えば、空調の関係から貴重な酸素を燃やしてしまうわけにもいかない。
それでも今のアリシアはリスクを冒してまでタバコに逃げたい思いだった。
「結局、すべてが予定調和なんだったら、私がここにいる意味なんてないよね」
答えはすでに用意されていた。闇の書の永久凍結。何者かが11年前から持続的に計画していたことを、自分はただ跡をたどっただけに過ぎない。
それを超える解決策は無く、唯一の可能性も成功する確率が一切分からないのであれば、それは縋るに値しないことだ。
0か1か。成功すれば60億の人類が助かる。しかし、失敗すれば60億の人類を死なせることにもなりかねない。
成功する確証の得られないことにそれだけの人命を賭けるわけにはいかない。
(グレアム提督に託したデータが有効に活用されれば良いんだけど)
聖王崩御の鎮魂祭の日。双子の月が天窓を彩っていた礼拝堂でアリシアが残していったメモリーチップには、闇の書の永久凍結に関する概要とそれに必要なもの、考えられる具体的な作戦内容やその問題について、アリシアが考えられることすべてが記載されている。
仮にリンディがこの計画の黒幕であるのなら、グレアムというリンディの実質的な上官の存在がおそらくは重要なファクターになるだろうという考えだった。
そして、それに加え、アリシアはベルディナの記憶から導かれる確たる証拠の提示できない案をも記載していた。
闇の書の前身、夜天の魔導書が兵器として生まれ変わった場所。古代ベルカの首都、ゼファード・フェイリアであれば、壊れてしまった夜天の魔導書を正常化する方法が残されているかもしれないということ。
だがそのための前提条件は、安全な形で闇の書を拿捕することだった。
「それが出来たら苦労しないよね」
アリシアは自嘲してモニターを閉じた。
(もう、ここで私が出来ることはないか……)
アリシアはそう思い浮かべながらモニュメントから腰を上げ、そっと無重力空間へと身をゆだねた。
緩い回転とともに漂っていく身体。アリシアはそっと目を閉じてその感覚を味わうように口を閉ざす。
最初にクロノが提示した期限まではあと数日。しかし、あと数日会ったとしても現状の課題をクリアする妙案が得られる可能性は低く、例えどのような案を提示したところ、現状では闇の書の永久凍結を超えるだけの良案が得られるとは考えられなかった。
管理局の法制上、永久凍結の案は違法すれすれといっても過言ではない。
しかし、最小の犠牲によって何十億の人命を救うことが出来る案としてはこれ以上にないことでもある。例え、その猶予が50年から100年程度であってもその間、世界は闇の書の驚異から解放される。
人々が求める物は法的な正義ではなく、日々の安息。しかし、人々に与えられる安息は法の正義の下にもたらされた物である必要もある。
「悩むだけ時間の無駄ってことかな……」
「何が無駄なの?」
「うん?」
アリシアは閉じていた目を開いた。自分以外の声がこの場所で聞こえるわけがない。少し前までは相棒として所持していたプレシードも今となってはここにはいないのだ。
「おはよう、お姉ちゃん」
「フェイト。どうやってここに入ったの?」
少しだけ襲いかかってきていた眠気を覚ますようにアリシアは目をこすり、自分に寄り添うように宙に浮いている妹、フェイトに問いかけた。
「えーっと、普通に入れたよ?」
フェイトはクリッとした赤い瞳を瞬かせ、小首をかしげた。
そんなはずはないとアリシアは思うが、自分とフェイトの関連性を考慮すればそれもあり得るかと思い至る。
一般的な双子はDNA以外の個人認証パターンは割と異なるらしい。しかし、自分達はそれどころの話ではなく、プレシアが人為的に様々な部分を同じにしているはずだ。
だから、現状の無限書庫の個人認証システムのレベル程度ではアリシアとフェイトを識別することが出来なかったのかもしれないとアリシアは判断する。
無限書庫は情報の墓場だ。莫大な情報が眠っているにもかかわらず、その開拓時代以降それらを有効活用できた実績は存在しない。そんな場所に比較的高価に分類される高レベルの個人認証システムが設置されることは無かった様子だ。
アリシアは、まだ不思議そうにしているフェイトの手を取り、身体の回転を止めた。
「今日は本局に用事があったんだ」
フェイトは飛行魔法を使ってアリシアは中央のモニュメントに腰掛けさせ、自分もその隣に腰を下ろした。
「うん。今日はデバイスの調整とユーノの検診があったから」
「そう。ユーノは元気にしてた?」
「なのはと一緒に元気に飛び回ってるよ」
それは良かったとアリシアはホッと一息ついた。
作品名:【リリなの】Nameless Ghost 作家名:柳沢紀雪