自分列島改造宣言
しかし、2026年を生きる私たちの前には、コンクリートの摩耗と、静まり返った地方の駅前、そして「どこへ行っても同じ風景」という虚無感が横たわっている。今、私たちが必要としているのは、地図を塗り替える権力者の筆ではなく、一人ひとりの人生を彩るための「自分列島改造論」ではないだろうか。
かつての改造論が「場所を豊かにすること」を目指したのに対し、これからの改造論は「場所の制約から魂を解放すること」を目指すべきだ。
物理的な「道」から、感性の「回路」へ
かつての国道は、富を都市から地方へ運ぶ一方通行のパイプだった。しかし現代において、富の源泉はアスファルトの上ではなく、光ファイバーと衛星通信の向こう側に流れる「情報と感性」にある。
都心の満員電車に揺られながら、窓の外のビル群を眺める生活。それは果たして、田中角栄が夢見た「豊かな日本」の完成形なのだろうか。私はそうは思わない。 真の改造とは、「どこにいても、世界と繋がれる」という安心感をインフラにすることだ。山あいの古民家で、鳥の声をBGMにしながら、メタバースを通じて地球の裏側の仲間とプロジェクトを動かす。そんな「物理的距離の消滅」こそが、地方を単なる「都市の郊外」から「独立した思考の拠点」へと昇華させる。
エネルギーと生活の「自律」
昭和の改造は、巨大な発電所と送電網による「中央集権」を前提としていた。しかし、これからの列島は、細胞のように自立したコミュニティの集合体であるべきだ。
太陽の光、吹き抜ける風、里山のバイオマス。その土地のエネルギーでその土地の暮らしを賄う「マイクログリッド」は、単なる節電の知恵ではない。それは、中央のスイッチ一つで生活が左右されないという、真の意味での「生活の主権」を取り戻す行為だ。 エネルギーが自律し、自動運転や空飛ぶクルマが既存の道路網という呪縛を解き放つとき、かつての「過疎地」は「プライベートで贅沢な聖域」へとその価値を180度転換させる。
「自分」という列島をどう歩くか
田中角栄の改造論には「国民」という大きな塊はあったが、「個人」の顔は見えにくかった。令和の私たちが描くべきは、「自分という唯一無二の列島」をどう耕すかという視点だ。
定住という概念すら、過去のものになるかもしれない。季節に合わせて居住地を軽やかに変え、ある時は都会の刺激を、ある時は森の静寂を享受する。それは逃避ではなく、環境を能動的に選択し、自らのパフォーマンスを最大化させる「自己経営」の形である。
コンクリートを、意志で塗り替える
日本列島は、もうこれ以上コンクリートで固める必要はない。今、塗り替えるべきは私たちの「住み方」の定義だ。
かつての改造論が「日本を一つに結ぶ」ことを目的としたなら、新しい改造論は「日本を多色にバラけさせる」ことを目的とする。標準化された豊かさを捨て、自分にとっての最適解を日本中の、あるいは世界中の座標から選び取る。
地図を広げてほしい。そこには、まだ誰の筆も入っていない、あなただけの航路が眠っているはずだ。この「自分列島改造論」は、国会で決まるのではない。今日、あなたがどこで、誰と、どんな風に笑って過ごしたいかという、その意志から動き出すのだ。



