澱(よど)んだ情報の濁流を止める
かつて報道は「社会の木鐸(ぼくたく)」と呼ばれた。人々に警鐘を鳴らし、正道へ導く役割を自認していたはずだ。しかし、今やその響きは虚しく、茶の間やスマートフォンの画面に流れるのは、誰かの尊厳を切り刻む「言葉の暴力」と、権力への卑屈な沈黙ばかりである。
日本のメディア構造には、根深い「甘え」が巣食っている。記者クラブという特権的な器の中で、当局と「情報の持ちつ持たれつ」を繰り返す。権力の不正には牙を剥かず、その一方で、一度標的と定めた個人には、週刊誌からワイドショーまでが総出で襲いかかる。この歪んだ構図こそが、人権侵害の温床ではないか。
さらに罪深いのは、その濁流がSNSという増幅器を経て、無数の「私刑」へと形を変えることだ。幼い頃からこうした光景を「娯楽」として消費して育つ世代に、他者への想像力を求めるのは酷かもしれない。情報の垂れ流しは、社会全体の倫理観を静かに、だが確実に麻痺させていく。
欧米に比べ、報道による人権侵害への法的制裁が極めて緩いことも、この暴走を許す要因となっている。書いたもん勝ち、流したもん勝ち。そんな風潮が放置される中で、被害者の人生だけが修復不能なまでに破壊される。
メディアが権力の広報官に成り下がり、一方で個人の尊厳をなぶりものにする。この「二重の不誠実」を、私たちはいつまで許容するのか。情報の受け手である市民が、冷徹な監視者としてメディアを選別し、声を上げ続けなければならない。澱んだ水を浄化するのは、他でもない私たちの「拒絶」という意思表示である。
作品名:澱(よど)んだ情報の濁流を止める 作家名:タカーシャン



