本体はどっちか
文部科学省主導で進められてきた教育のデジタル化は、もはや後戻りできない段階に入っている。GIGAスクール構想に象徴されるように、端末の整備、デジタル教材の導入、学習履歴の可視化が一気に進んだ。理念として掲げられたのは「個別最適な学び」と「効率化」である。
だが、その先にある学びの姿は、本当に人間の成長に適っているのだろうか。
かつて学びとは、時間をかけて血肉にするものだった。覚えること、迷うこと、考え抜くこと。その遅さが、思考力や判断力を育ててきた。しかし現在の教育行政は、測定できる成果、即時に示せる理解、処理速度を過度に重視しているように見える。
分からなければ検索する。覚えなくても端末が答えを保持する。こうした環境の中で、子どもたちは「考えているつもり」になりやすい。だが実際には、思考の主体が人間から端末へと静かに移動してはいないか。
デジタル教育そのものが問題なのではない。問題は、文科省を含む教育行政が「道具」と「主体」の線引きを十分に議論しないまま、現場に速度だけを求めてきた点にある。教員には活用が求められ、子どもには適応が求められる。一方で、「考えるとは何か」「学びはどこに残るのか」という根源的な問いは後景に退いている。
このまま進めば、学びは内面化されず、外部委託される。記憶も判断も履歴も、すべてが端末側に集約される時代が来る。そのとき、避けて通れない問いが生まれる。
本体はどっちなのか。
端末を失えば何もできない人間と、人がいなくても情報を保持し続ける端末。教育が知らぬ間に育てているのは、自立した思考者ではなく、参照するだけの存在かもしれない。
教育行政に求められるのは、さらなる加速ではない。立ち止まり、遅さの価値を再評価する勇気である。デジタルは補助線にすぎない。その補助線が主線に入れ替わるとき、失われるものは取り戻せない。



