もっと病
「もっと仕事を」「もっと早く」「もっと成果を」――。
気がつけば、私たちはこの言葉に追われながら生きている。時間に余裕がある日でさえ、なぜか足を速めてしまう。急ぐ必要はないと頭では分かっているのに、身体は前へ前へと進もうとする。いったい人は、何をそんなに急いでいるのだろうか。
現代社会には、目に見えない病が広がっている。私はそれを「もっと病」と呼びたい。この病には明確な症状がある。満足できないのである。どれだけ頑張っても「もう十分だ」と感じる前に、「まだ足りない」という声が内側から湧き上がる。そしてその声に従い、人はさらに走り続ける。
不思議なことに、この病にはゴールが存在しない。「もっと」は達成された瞬間に、新しい「もっと」を生み出す。昇進すれば、さらに上を求められる。成果を出せば、次はより大きな成果を求められる。やがて人は、自分が何を目指しているのかさえ分からなくなる。ただ走ることだけが習慣になり、止まることが怖くなる。
昔、人は生き延びるために走っていた。食べ物を得るため、危険から逃れるため、命を守るためだった。しかし現代では、多くの場合、生きるための最低限は満たされている。それでも走り続けてしまうのはなぜか。それは社会が「速さ」と「多さ」に価値を与え続けてきたからだ。
早い人は優秀とされる。忙しい人は頑張っていると評価される。立ち止まる人は怠けていると思われる。こうした価値観は、いつしか他人からの評価を超え、自分の内側に住み着く。そして心の中に、見えない上司が生まれる。その上司は休みなく語りかける。
「まだできるだろう」
「休むのは甘えだ」
「遅れたら置いていかれる」
この声は外からの命令ではない。だからこそ厄介である。逃げ場がない。むしろ真面目で責任感が強い人ほど、この声に忠実に従ってしまう。周囲の期待に応え続けてきた人ほど、「もっと病」は深く根を張る。
しかし、この病には処方箋がある。それは意外なほど単純な言葉だ。
「十分」
今日は十分やった。
この速度で十分だ。
この自分で十分だ。
この言葉を口にすると、多くの人は違和感を覚える。もっとできるのに、と身体が反発する。長年走り続けてきた身体は、急に歩き方を思い出せない。しかし人間の心と身体は、「もっと」では回復しない。「十分」と感じたときにだけ、初めて整い始める。
時間に余裕があるのに走ってしまう人は、怠け者ではない。むしろ、誰よりも真剣に生きてきた人である。応え続け、期待に応え、自分を奮い立たせてきた証である。その努力は否定されるものではない。ただ、走り続けるだけが生き方ではないという事実を、そろそろ思い出してもよいのではないだろうか。
人は走ることができるからこそ、歩くこともできる。立ち止まることもできる。そして皮肉なことに、人生の景色は、たいていゆっくり歩いたときにこそ見えてくる。
「もっと」を追いかけ続ける社会の中で、「十分」と言える人は少ない。だが、その言葉を自分に許せたとき、人は初めて、本当の意味で前へ進み始めるのかもしれない。



