遅さの思想
私たちは長い間、「速いことは正しい」と教えられてきた。早く終える人、早く成果を出す人、早く答える人が評価され、遅い人はどこか劣っているように扱われる。いつのまにか、速さは能力であり、遅さは欠点だという思い込みが社会に染みついてしまった。
だが本当にそうだろうか。
速く歩くと、景色は背景になる。速く話すと、言葉は情報になる。速く決断すると、迷いは切り捨てられる。便利で効率的だが、そこには「感じる余白」がない。速さは多くを処理できる代わりに、多くを見落とす。
遅くなると、世界は急に饒舌になる。風の向き、相手の呼吸、空気の温度、言葉にされなかった感情。これらはすべて、速さの中では消えてしまうものだ。遅さとは、能力の低下ではなく、感受性の回復なのだと思う。
歳を重ねると、体は確かに遅くなる。しかしそれは衰えではない。人生が「見る段階」に入ったという合図だ。若い頃は走り抜けるしかなかった場所に、ようやく立ち止まれるようになる。遅くなったからこそ、これまで見えなかったものが見えてくる。
亀は競争に勝たないが、道を知っている。引き返すことも、殻に入って休むこともできる。遅さとは、生き延びるための知恵であり、続けるための技術だ。
老後とは余生ではない。速さの価値観から解放された創造期である。もう比べなくていい。もう急がなくていい。遅さを選ぶことで、人はようやく自分の人生に滞在できる。
遅ければ、あらゆる物事が見える。
だから私は、こう決めている。
遅いことは、素晴らしい。



