戦争が「できない国」が、戦争が「できる国」になってしまうとき
「戦争ができない国」
それは、日本が長い時間をかけて選び続けてきた、生き方だった。
戦わない。
武器で儲けない。
核を持たない。
力よりも、理屈と対話を信じる。
それは弱さじゃない。
“戦争をしない覚悟”という、強い選択だった。
でも今、その前提が静かにひっくり返されようとしている。
最近の政治は、こう言う。
「現実を見ろ」
「理想だけでは国は守れない」
「自分で守れる国にならなければ」
たしかに、世界はきれいごとだけじゃない。
ミサイルは飛ぶし、戦争はニュースじゃなく現実だ。
だからこそ、問いはここにある。
守るために強くなるのか。
戦えるようになる準備なのか。
この二つは、似ているようで、まったく違う。
武器を輸出できるようになる。
核を「持たない」とは言い切らなくなる。
国の秘密を理由に、言葉が制限されていく。
一つひとつは「仕方ない」に見える。
でも、それが積み重なると何が起きるか。
「できてしまう」国になる。
戦争が、
「選択肢の一つとして存在できてしまう国」。
怖いのは、戦争そのものより、
慣れてしまうことだ。
「もしものため」
「抑止力だから」
「みんなやっているから」
そうやって言葉が整えられると、
戦争は、だんだん現実味を失い、
気づいたときには「準備完了」している。
歴史はいつも、そうだった。
若者にとって一番大事なのは、
右か左か、賛成か反対か、じゃない。
「これは、自分の未来の話か?」
それを考えることだ。
もし戦争が起きたら、
政治家が行くわけじゃない。
テレビで語る人が行くわけでもない。
行くのは、
今、バイトしてる人。
学校に通ってる人。
恋をして、悩んで、将来を考えている人だ。
「戦争ができない国」は、不器用だった。
遠回りで、批判も多かった。
でもそれは、
誰かを殺さないための不便さだった。
その不便さを手放すとき、
本当に手に入るのは「安心」なのか。
それとも、「引き返せない未来」なのか。
強くなる前に、
早く決める前に、
一度立ち止まろう。
戦争ができる国になる前に、
戦争を選ばない国であり続ける理由を。
考えること自体が、
もう立派な「抵抗」であり、
未来への責任なんだから。
作品名:戦争が「できない国」が、戦争が「できる国」になってしまうとき 作家名:タカーシャン



