報道という名の「CM」
「伝えきれていなかった」――。選挙後、メディア関係者の口から漏れるこの言葉に、どれほどの有権者が白けた思いを抱いただろうか。結果を予測できなかったことへの弁明か、あるいは民意のうねりを読み違えたことへの言い訳か。しかし、受け手の側からすれば、それは反省の体裁を借りた「職務放棄」の告白に等しい。
本来、メディアは社会の鏡であり、権力を監視し、真実をありのままに映し出す「公器」であるはずだ。だが現状はどうだろう。視聴率という数字に魂を売り、政策の深層よりもスキャンダルという劇薬を好んで供する。有権者が国の未来を託すための判断材料を、恣意的に選別し、加工し、特定のストーリーへと流し込む。
もし、国の行方を左右する極めて重大な局面において、事実を正しく伝えることができないのであれば、その営みを「報道」と呼ぶのは傲慢ではないか。中立公正という看板を掲げながら、その実態が特定の方向へ誘導する演出に終始しているのなら、それはもはやジャーナリズムではない。ただの「CM」である。
真実を伝えることは、時に送り手にとって不都合であり、視聴者にとって耳の痛いものであるかもしれない。しかし、その痛みこそが民主主義の健全さを保つバロメーターだ。娯楽というオブラートに包まれた情報は、一時の刺激にはなっても、血肉となる知見にはならない。
メディアよ、自らを「CM」と自嘲する日が来ぬうちに、その重い社会的責任を思い出すべきだ。どこまでも真実を伝え切る。その覚悟なき言葉は、もはや誰の心にも届かない。
作品名:報道という名の「CM」 作家名:タカーシャン



