「変わらない」を選び続ける政治へ2026.1.8
世の中は変わらない。
それは自然現象ではない。選ばれてきた結果である。
選挙のたびに「改革」「刷新」「国民のため」という言葉が踊る。しかし投票が終われば、政治はいつもの顔に戻る。制度は骨抜きにされ、検討は先送りされ、責任は誰のものでもなくなる。これは偶然ではない。変わらないことを望む力が、政治の中心に居座っているからだ。
政治が守ってきたのは、生活者ではない。
既得権、前例、組織、票、そして金だ。
物価が上がり、賃金が伸びず、若者が未来を描けなくなっても、「慎重に」「総合的に」「丁寧に」という言葉で時間だけが浪費される。その間、誰が得をしてきたのか。答えは明白だ。
「急激な変化は危険だ」と政治は言う。
だが、すでに危険なのは現状のほうである。
少子化、人口減、地方の崩壊、氷河期世代の放置。これらは自然災害ではない。政治が決断を避け続けた結果だ。
選挙で示された民意は、都合よく解釈され、薄められ、忘れられる。国会は議論の場ではなく、既に決まった結論をなぞる儀式になりつつある。そこにあるのは「変える政治」ではなく、「戻す政治」だ。
政治家はよく言う。「国民が変わらなければ政治も変わらない」と。
それは責任転嫁である。
変える権限と情報と報酬を持っているのは誰か。国民ではない。政治だ。
投票率の低下は、無関心ではない。
裏切られ続けた結果の不信である。
それでもなお、「政治に関心を持て」と説教する資格が、今の政治にあるのか。
この選挙で問われているのは、右か左かではない。
「変わらない政治を、これからも許すのか」という一点だ。
世の中は、放っておけば必ず元に戻る。
だからこそ、選挙だけは戻してはならない。
変わらないことに票を入れるのか。
それとも、戻る力に抗う意思を示すのか。
この一票は、未来への延命ではない。
現状への加担かどうかを問われている。
【若者世代へ】
未来を奪われたまま、黙るのか
若者に「政治に関心を持て」と言う前に、政治は若者に何をしてきたのか。
答えは冷酷だ。何もしてこなかった。
学費は上がり、奨学金は借金となり、非正規雇用は当たり前になった。結婚も、子どもも、夢も「自己責任」で片づけられる一方、政治は「検討」という言葉の陰に隠れ続けた。
選挙のたびに「若者の声を聞く」と言う。だが実際に聞かれてきたのは、業界団体と票田の声だけだ。若者が将来に不安を抱え、投票所から足を遠ざけた結果、「若者は票にならない」と判断され、ますます無視される。この悪循環を作ったのは、若者ではない。
政治は言う。「急激な改革はできない」と。
だが若者の人生は、待ってくれない。
就職、収入、住居、出産、すべてに“期限”がある。
変わらない政治を放置することは、未来を前借りして食い潰す行為だ。
この選挙で問われているのは、理想論ではない。
自分の時間を、これ以上奪わせるのかどうかである。
投票は魔法ではない。
だが、沈黙は確実に無視される。
【氷河期世代へ】
「自己責任」で切り捨てられた世代からの最終通告
就職氷河期世代は、努力が足りなかったのではない。
最初から、椅子が用意されていなかった。
景気回復の波からも、雇用の安定からも外され、非正規のまま年齢を重ねた。社会はこう言った。「仕方がない」「運が悪かった」「自己責任だ」と。だがこの世代を放置してきたのは、明らかに政治である。
氷河期世代が高齢化すれば、待っているのは低年金と孤立だ。これは個人の問題ではない。社会全体の危機である。それでも政治は長年、場当たり的な支援と形だけの対策で時間を浪費してきた。
選挙になると、突然この世代に声がかかる。
「人数が多い」「票になる」
だが選挙が終われば、また忘れられる。
氷河期世代は、もう十分に耐えてきた。
これ以上「将来の検討」に人生を差し出す理由はない。
この世代が声を上げなければ、
「切り捨てても問題ない世代」という前例が完成する。
それは、次の若者たちへの宣告でもある。
怒りを忘れる必要はない。
諦める必要もない。
この選挙は、最後の救済要請ではない。
最初で最後の、政治への請求書である。
作品名:「変わらない」を選び続ける政治へ2026.1.8 作家名:タカーシャン



