デマという社会的暴力
デマを流す行為は、単なる「間違い」ではない。意見の自由の名を借りた、社会への加害である。事実に基づかない情報は、人の判断力を鈍らせ、不安と怒りを増幅させ、結果として分断と混乱を招く。被害者は特定の個人にとどまらない。家庭が壊れ、地域が疑心暗鬼に陥り、やがて国全体の信頼が蝕まれていく。
デマの厄介さは、その拡散速度と無責任さにある。発信者は検証の手間を省き、受け手の感情に直接訴えかける。恐怖、怒り、被害者意識――これらは真実よりも速く、広く伝播する。理性が追いついたときには、すでに傷は深い。
仏教に「悪鬼入其身」という言葉がある。欲や恐れに心を明け渡した状態を指すが、デマの拡散はまさにそれに近い。理性と責任を手放し、刺激と承認欲求に操られた言葉が、無数の人の心を傷つける。そこに思想はなく、あるのは拡散と破壊だけだ。
私たちは「表現の自由」を守る一方で、「検証する義務」を忘れてはならない。自由は責任と対になって初めて社会に根付く。真実かどうかを確かめ、出所を問い、立ち止まる。その一拍が、社会を守る。
デマは言論ではない。暴力である。
だからこそ、沈黙でも糾弾でもなく、事実と理性で対峙する成熟が、今ほど求められている時代はない。
民主主義を裏切る言葉
衆議院選挙という国の進路を決める局面で、著名人や見識者がデマを流す。その事実は、もはや驚きではなくなりつつある。だが、見過ごしてはならないのは、その多くが「知らなかった」のではなく、「知っていて」発信されている可能性だ。これは無知ではない。意図である。
影響力を持つ者の言葉は、刃物に等しい。軽々しく振るわれた一言が、数万、数十万の判断を歪める。事実ではないと理解しながら放たれる言葉は、誤情報では済まされない。それは世論操作であり、民主主義そのものへの背信行為だ。
選挙は、国民が理性をもって未来を選ぶ唯一の機会である。その場に恐怖や怒り、偏見を意図的に持ち込み、判断力を奪う行為は、暴力と何が違うのか。血は流れない。しかし、社会の信頼と公共の土台は確実に破壊されていく。
言論の自由を盾に、責任から逃げる姿勢も看過できない。自由とは、真実を歪める権利ではない。とりわけ、肩書きと影響力を持つ者には、一般市民以上の検証義務と説明責任が課される。それを放棄した瞬間、その言葉は批評ではなく扇動に堕ちる。
知っていて流すデマ――その罪は深い。
それは一度きりの選挙結果を歪めるだけでなく、
「この国では嘘が通用する」という冷たい学習を社会に残す。
民主主義が壊れるとき、それは銃声ではなく、
無責任な言葉の拍手から始まる。
作品名:デマという社会的暴力 作家名:タカーシャン



