善友を失う政治に、統治能力はあるのか
選挙を前にすると、政治は言葉を強める。対立を煽り、敵を明確にし、分断を利用する。その中で近年、目立つのが「決別」「遮断」「距離を取る」といった姿勢を、あたかも決断力であるかのように語る政治である。
だが問うべきは、それが本当に統治能力なのか、という点だ。
隣国との関係、政党間の関係は、好き嫌いで選べるものではない。そこには地理も歴史も、国民生活も深く絡み合っている。対話を重ね、衝突を管理し、妥協点を探り続けることこそが、政治の仕事であるはずだ。
善友とは、迎合する相手ではない。耳の痛いことを言い、誤りを指摘し、時に政策の未熟さを暴き出す存在である。隣国も、野党も、与党にとっては都合の悪い現実を突きつける「政治的な善友」だ。そこから距離を取り、排除し、敵視することは、実は最も安易な選択である。
国会で政党間の対話が機能しなくなれば、政策は調整力を失い、数の論理だけが支配する。外交で隣国との関係を断てば、緊張は管理不能となり、リスクは国民生活へと跳ね返る。いずれも、その責任を負うのは政治家ではなく、社会全体だ。
孤立を強さと勘違いする政治に共通するのは、修正力の欠如である。外からの批判を拒み、内輪の論理に閉じこもった政治は、自らの誤りに気づく機会を失う。軸を持つ政治とは、他者を切り捨てることではない。揺さぶられながらも耐え続ける力を持つことだ。
善友を失うことは、未来を閉ざすことである。
それは同時に、国家運営の軸を自ら引き抜く行為でもある。
選挙で問われるべきは、誰が強い言葉を使えるかではない。誰が対話を引き受け、関係を維持し、誤りを修正し続けられるかだ。分断を利用する政治か、関係を背負う政治か。国会と有権者は、今こそその違いを見極めなければならない。
作品名:善友を失う政治に、統治能力はあるのか 作家名:タカーシャン



