減税という名の無責任
減税という言葉ほど、軽く扱われている政治用語はない。
耳触りは良く、拍手も起きる。しかし、その裏にあるはずの「責任」が、ほとんど語られない。
本来、減税は願望ではない。
政策である以上、必ず財源の裏付けと実現できる確率を伴うべきものだ。
どの税を、どれほど下げ、その不足分を何で補い、成功する可能性は何%なのか。
ここまで示して、初めて国民に提示できる。
それを示さずに「減税します」と言うのは、
地図も燃料も示さずに「目的地へ行こう」と言っているのと同じだ。
これは政治ではなく、ただの政治ごっこである。
子どもが遊びでやるなら許される。
だが国家運営でそれをやれば、結果を引き受けるのは国民だ。
言葉だけ、形だけ整え、中身を語らないのは無責任というより、
責任を取る能力がないことの告白に近い。
本当に成熟した政治とは、
「できること」と同時に「できない可能性」も語るものだ。
減税が失敗した場合、何を削るのか。
誰が痛みを引き受けるのか。
それを国民と共有する覚悟があって、初めて政策と呼べる。
評価を落とすことを恐れ、都合のいい言葉だけを並べる政治は、
国家よりも自分を守っている。
それを見抜かずに拍手を送れば、
政治はますます幼くなっていく。
減税は魔法ではない。
財源と確率を示せない政策は、希望ではなく空想だ。
今、問われているのは「何を言うか」ではない。
その言葉の結果を、誰が引き受けるのかである。
作品名:減税という名の無責任 作家名:タカーシャン



