風の向くまま
一人で何百億円という資産を持ちながら、それをただ眠らせている。その傍らで、まだ食べられる食料が「廃棄」という名のもとにゴミ箱へ消えていく。この光景を前に、私たちはいつから「仕方のないこと」と諦めてきたのだろうか。
ある人が提案する社会の形は、驚くほどシンプルで、かつ本質的だ。「まず、所得を平均にする。それを最低保証の土台とし、その上に個人の努力や才能を上乗せする」。生存のための怯えをなくし、誰もが「普通」に暮らせる安心を手に入れたとき、人は初めて自分の力を他者のために使い始めるという。
その第一歩として、目に見える風景から変えてはどうか。街角のコンビニで日々捨てられる食料を、眠っている巨額の資産を投じて「公共の富」に書き換える。近隣でそれを分かち合い、食の不安を消し去る。それは単なる施しではない。胃袋が満たされ、将来への不安が消えた人々は、今度は自らの意志で地域を支える「担い手」へと変わっていくはずだ。
死んでいる金は、ただの数字であり、ゴミと同じだ。しかし、それが循環の輪に入ったとき、食料廃棄を止め、子供たちの教育を支え、住まいの安心を作る「命の源」へと姿を変える。
「救われた人々の力が、地域社会を支えてくれる」。この言葉に宿る信頼こそが、停滞するこの国のOSを書き換える鍵ではないか。奪い合うのではなく、分かち合うことで生まれる「上乗せの努力」。そんな景色を、私たちはコンビニの棚の向こう側から、今すぐ作り始めることができるはずだ。
循環せよ、さもなくば死す
「何事も放置するな、循環せよ」。この言葉は、現代社会のあらゆる不全に対する最後通牒である。
銀行の奥底で動かぬ巨額の資産。賞味期限の数字に縛られ、ゴミ袋に詰め込まれる弁当。そして、才能がありながら日々の糧に追われ、未来を放置せざるを得ない若者たち。これらすべては、社会という巨大な「体」のなかで血流が止まった「淀み」に他ならない。
一人で何百億を抱え込むことに何の意味があるのか。使われぬ金は石ころと同じであり、捨てられる食料は罪の証である。それらを結びつけ、人々の「生活の平均」を底上げする循環へと導くこと。それは慈善ではなく、社会を生き返らせるための「外科手術」だ。
コンビニの棚から始まる小さな循環が、やがて教育を、食を、住まいを支える巨大な環となる。不安から解放され、尊厳を取り戻した人々が、今度は地域を支える力強い細胞となって躍動し始める。
富も、食も、志も。
すべてを解き放ち、隣人へと繋げ。
放置を許すな。滞りを打ち破れ。
「循環」の先にこそ、我々の真に豊かな暮らしは待っている。



