「やりたい人」に任せる危うさ
「政治家は嘘つきだ」という手古摺(てこず)った言葉が、もはや諦念(ていねいん)とともに響く。私生活では不倫、仕事では裏金。不祥事が露見するたび、彼らはよどみない口調で釈明を並べる。皮肉なことに、不誠実な者ほど、言葉という道具を扱う技術に長けているのだ。
私たちは、いつから「言葉」を信じすぎてしまったのだろうか。本来、人の真価は行動にしか宿らない。しかし、現代の選挙制度は「自分がいかに優れているか」を雄弁に語ることを強いる。この仕組み自体が、誠実で控えめな人を遠ざけ、権力への執着を隠し持つ「口のうまい表現者」を呼び寄せるフィルターになってはいないか。
そもそも政治とは、社会の歪みを正すための過酷な「奉仕」であるはずだ。私生活を犠牲にし、重責を担う仕事を、なぜあんなにも「やりたい」と熱望できるのか。その情熱の源泉が、社会への献身ではなく、権力という蜜への渇望であるならば、当選した瞬間に「目的」と「手段」は逆転する。彼らにとっての政治は、もはや私利私欲を満たすための舞台に過ぎなくなる。
プラトンはかつて「統治を望まない者こそが、統治にふさわしい」と説いた。もし、周囲から推され、義務感に背中を押されて渋々教壇に立つような人物がリーダーを務める社会であったなら、裏金や不倫といった「特権意識の暴走」はこれほどまでに蔓延(まんえん)しなかっただろう。
「信じられるのは行動だけ」という冷徹な視点を持つことは、もはや有権者のたしなみである。饒舌な公約よりも、その人物が過去に何を成し、何を律してきたか。私たちは言葉の魔術から目を醒まし、その背中を凝視しなければならない。
作品名:「やりたい人」に任せる危うさ 作家名:タカーシャン



