祈りの殻を破る時 ―思想なき「島国」の限界―
宗教や思想というものは、それが単なる個人の「祈りの対象」であるうちは、平穏な精神世界の中に安住していられる。しかし、ひとたびそれが現実の社会を動かす「力」や「影響力」を持ち始めたとき、周囲には非難と中傷の嵐が巻き起こる。それは一見、醜い争いに見えるが、実は一つの思想が「公」の舞台に立ったときに避けては通れない、ある種の洗礼のようなものである。
世界を見渡せば、宗教や思想を理念として政治を行うことは、むしろ「常識」である。欧米の民主主義であれ、イスラム圏の国家運営であれ、その根底には必ず揺るぎない価値観の体系が存在する。政治とは、限られた資源をどう分配するかという技術である以上に、「何が正しい社会なのか」という理念の具現化であるからだ。
しかし、四方を海に囲まれた島国である日本において、この「理念」という言葉はどこか浮世離れして響く。日本人は、思想や宗教に対して、極めて未熟な国民性を抱えていると言わざるを得ない。確固たる己の芯を持つことよりも、「周りに左右されること」や「空気を読むこと」を優先し、摩擦を避けることを美徳としてきた。信仰は「季節の行事」として消費され、思想は「極端なもの」として敬遠される。
だが、この「思想的根底の不在」こそが、現代日本が国際社会で直面している最大の壁である。
世界からの信用とは、単なる経済力や礼儀正しさだけで得られるものではない。国際社会という荒波の中で、他者が最も注視しているのは「その人物(あるいは国家)が、究極の局面において何を根拠に判断を下すのか」という、行動原理の裏付けである。確固たる思想的バックボーンを持たない者は、その場の利益や周囲の顔色で判断を変える「予測不能な不気味な存在」として映る。自分の命を懸けてでも守るべき理念を持たない者に、他者は真の信頼を寄せることはないのである。
「ただ祈るだけ」の段階に留まっている限り、波風は立たない。しかし、それでは世界と対等に渡り合うことはできない。非難と中傷の嵐を恐れず、自らの理念を現実の力へと昇華させる覚悟。その「思想の確立」こそが、今の日本に最も欠けており、かつ最も必要とされているものではないだろうか。
周囲に流される平穏を捨て、批判の嵐の中に自らの「芯」を打ち立てること。それが、日本人が「未熟な国民性」を脱却し、真に世界から信頼されるための第一歩となるはずだ。
作品名:祈りの殻を破る時 ―思想なき「島国」の限界― 作家名:タカーシャン



