両立社会が変える日本の背骨
日本の政治が変わらないと言われるとき、そこには常に巨大な「官僚組織」の影がある。前例を尊び、無謬性を重んじる霞が関の論理は、時に庶民の切実な現場感覚を置き去りにし、国家のエンジンであるはずの行政を「動かぬ壁」へと変えてしまう。この壁を突き崩し、本当の意味で社会をアップデートするために必要なのは、抽象的な政治理念ではない。現場に根ざした「強力な実務の力」である。
その力を発揮すべき最前線にいるのが、地方議員だ。国会議員が法律の骨組みを作り、官僚がルールを管理するなら、そのルールが現場でどう機能しているか——あるいは、いかに機能不全を起こしているか——を突きつけるのは、住民に最も近い地方議員の役割である。官僚は統計を信じるが、現場の事実は統計を凌駕する。「この制度のせいで、目の前の市民が苦しんでいる」という圧倒的なファクトこそが、硬直化した官僚組織を動かす唯一のレバー(梃子)となるのだ。
しかし、現代の地方議会には致命的な欠陥がある。低報酬や選挙コスト、そして「一度入れば戻れない」キャリアの断絶。この構造が、本来ならば実務の最前線に立つべき現役世代や専門家を、政治から遠ざけている。結果として、政治は「やりたい人」や「余裕のある人」の専売特許となり、本当に「やってほしい人」が選ばれる仕組みが失われてしまった。
この閉塞感を打破する鍵は、あらゆる分野における「両立社会」の実現にある。
政治家になるために本業を捨てる必要がなく、むしろ本業での知見や、育児・介護といった生活者としての「実務」を抱えたまま議会に参画できる。そんな「ハイブリッドな生き方」が当たり前になる社会だ。議員活動を特別な「聖域」にするのではなく、キャリアの一部、あるいは高度な社会貢献として誰もが関われるものにする。オンライン審議の徹底や夜間議会、そして企業側が「議員を務めた経験」を市場価値として評価する。そうした「両立」のインフラが整って初めて、地域のプロフェッショナルたちが「推挙」を受けて立ち上がることができる。
「やりたい人」の野心ではなく、「やってほしい人」への信頼が組織を動かすとき、政治は初めて庶民の手元に取り戻される。
両立社会が生み出す「働く議員」は、官僚組織にとって最強の交渉相手となるだろう。なぜなら、彼らは机上の論理ではなく、今まさに動いている社会の実務を武器にしているからだ。官僚という優秀なマシーンに、現場の熱量と実務の知見を注入する。それこそが、政治だけで変わらなかった日本を、根本から動かす力となるはずだ。
この閉塞感を打破する鍵は、あらゆる分野における「両立社会」の実現にある。
それは単に議員の働き方を変えることにとどまらない。庶民の誰もが、仕事、育児、介護、そして社会への参画という、人生のあらゆる側面を並行して全うできる社会——すなわち「国家としての両立インフラ」を構築することである。
今の日本社会は、何かに挑戦しようとすれば何かを捨てなければならない「トレードオフ」を強いてきた。しかし、庶民が生活と闘いながら、同時に社会をより良くするための実務にも関与できる。そんな「欲張りな生き方」を国家がシステムとして支えるとき、私たちは初めて、官僚が作る画一的な枠組みを超えた、多様で強靭な力を手にすることができる。
「やりたい人」の野心ではなく、「やってほしい人」への信頼が組織を動かすとき、政治は初めて庶民の手元に取り戻される。
両立社会が生み出す「働く国民」の一人ひとりが、それぞれの現場で培った実務の知見を、議会や行政へと還流させていく。そこにはもはや、分断された「政治家」と「庶民」の姿はない。官僚という優秀なマシーンに、生きた現場の熱量を注入し、国家の進路を正していくのは、両立社会を生きる私たち自身の「実務」という名の力なのだ。
誰もが何かを諦めることなく、持てる力を社会に還元できる。その「両立できる国家」を目指す歩みこそが、停滞した日本を根本から変える、最も静かで最も強力な革命となるだろう。
作品名:両立社会が変える日本の背骨 作家名:タカーシャン



