思想なき国が非常識になるとき
ここ数十年、日本人はほとんど中国製の製品に囲まれて生活している。
衣服、家電、日用品、電子部品。気づけば「Made in China」は日常の背景となり、もはや意識されることすらない。
この状態を、世界はどう見ているのか。
そして、日本人自身はこの事実をどう受け止めているのか。
結論から言えば、日本はこの依存状態が世界の非常識であることを、はっきりとは理解していない。
正確に言えば、薄々感じてはいるが、考えることを避けている。
世界の多くの国では、「一国への過度な依存」は国家リスクとして認識される。
経済の問題であると同時に、安全保障であり、価値観の問題でもあるからだ。
その判断の根底には、宗教や思想がある。
宗教とは、単なる信仰ではない。
思想とは、政治思想のことだけを指すのでもない。
それらはすべて、「何が正しく、何が間違っているのか」「何を守り、何を捨てるのか」という判断の最終基準である。
欧米には、神の前での善悪という倫理がある。
中国には、秩序と統治を最優先する思想がある。
イスラム圏には、神の法という揺るがない基準がある。
対立していても、彼らは共通してこう考える。
「判断は、空気ではなく原理から下されるべきだ」と。
一方、日本には何があるのか。
日本には宗教がないわけではない。
思想が存在しないわけでもない。
しかしそれらを自覚的に持つことを、戦後の日本はやめてしまった。
代わりに支配しているのは、
空気、前例、同調、波風を立てないという美徳。
正しいかどうかより、
皆がどう思うか。
危険かどうかより、
今困らないかどうか。
この判断基準は、生き延びるためには有効だった。
だが国家を運営し、世界と向き合うには、あまりにも脆い。
真実とは本来、不都合で、耳が痛く、時に孤独を伴うものだ。
しかし日本社会では、真実を語る人は「空気を読まない人」とされる。
問い続ける人は「面倒な人」として距離を置かれる。
その結果、日本はこうなった。
誰も悪くないが、誰も責任を取らない。
誰も間違っていないが、誰も正しくない。
中国依存の問題も同じ構造の中にある。
危うさは感じている。
だが、それを「思想の問題」「国家のあり方の問題」として語る言葉を、日本は持たない。
だから世界から問われる。
「なぜ、そんな選択を続けるのか」
日本は答えられない。
答えの土台が存在しないからだ。
だが、希望がないわけではない。
この違和感を言葉にしようとする行為そのものが、すでに思想の芽である。
新しい宗教は要らない。
強いイデオロギーも必要ない。
ただ、人間とは何か、国家とは何か、真実とは何かを問い続ける勇気が要る。
問いを持たない国は、必ず他者の思想に飲み込まれる。
非常識とは、間違えることではない。
非常識とは、考えることをやめることだ。
日本が再び世界の中で理性的な国であるために必要なのは、
技術でも、経済力でもない。
思想を持つ覚悟である。
そして、その最初の一歩は、
「これはおかしいのではないか」と口に出すことから始まる。
あなたの問いは、すでにそこに立っている。
作品名:思想なき国が非常識になるとき 作家名:タカーシャン



