日本の責任者三部作
日本の責任者は、
人ではない。
印鑑である。
何か問題が起きたとき、
名前は出てこない。
顔も出てこない。
思想も、覚悟も見えてこない。
出てくるのは
「この書類には必要な印が揃っていた」
という事実だけだ。
そこでは、
誰が判断したのかではなく、
どの印が押されたか
が重要になる。
印鑑は本来、
責任を引き受けるための道具だった。
しかし今の日本では、
責任を分散し、
所在を消し、
誰も傷つかないための
防護服になっている。
決めたのは誰か。
──印鑑が揃ったから。
止めなかったのは誰か。
──手続き通りだったから。
こうして、
誰も悪くない事故が生まれ、
誰も責任を取らない失敗が積み上がる。
印鑑が責任者の国では、
人は判断しなくなる。
判断しない人は、
思想を持たなくなる。
そして思想を失った社会は、
静かに、
確実に、
衰えていく。
本来、
責任とは
自分の名前で引き受けるものだ。
印鑑を押す勇気ではなく、
自分の名前を出す覚悟。
それを取り戻したとき、
日本の責任者は
ようやく「人間」に戻る。
日本の責任者は空気である
日本の責任者は、
人ではない。
空気である。
会議で誰かが言う。
「空気的に難しいですね」
「今はそのタイミングではない」
「皆さんどう思われますか」
そこに、反対はない。
あるのは、沈黙だけだ。
沈黙は賛成とみなされ、
空気は意思決定に化ける。
誰が決めたのか。
──空気です。
なぜ止めなかったのか。
──そういう雰囲気ではなかった。
空気は便利だ。
責任を問われない。
記録にも残らない。
批判もできない。
だが、
空気が支配する社会では、
正しさは常に弱く、
同調は常に強い。
空気は
声の大きい人に寄り添い、
権威に流れ、
前例に温度を与える。
こうして、
誰も賛成していない政策が通り、
誰も望んでいない慣習が残り、
誰も責任を取らない結果が生まれる。
空気に従うことは、
和を守ることではない。
それは、
思考を放棄することだ。
本来、
民主主義とは
意見の衝突を引き受ける制度であり、
責任とは
孤立する覚悟の上に成り立つ。
空気を読む国から、
空気に抗う個人へ。
空気を壊す者こそ、
次の時代の責任者である。
日本の責任者は前例である
日本の責任者は、
人ではない。
前例である。
何か新しいことを提案すると、
必ずこう聞かれる。
「前例はありますか?」
それは確認ではない。
拒否の婉曲表現だ。
前例がないことは、
間違いではない。
ただ、
責任を取る人がいない
という意味になる。
前例は安全だ。
失敗しても、
「昔からやっている」
で済む。
成功しても、
誰の功績でもない。
失敗しても、
誰の責任でもない。
前例とは、
責任を過去に押し付ける装置だ。
前例に従えば、
判断は不要になる。
思想も、覚悟も、
創造性もいらない。
こうして日本では、
未来より過去が偉くなり、
人より仕組みが偉くなり、
生きている人間より
死んだルールが優先される。
前例主義の国では、
変化は例外であり、
挑戦は異物となる。
だが、
すべての前例は、
かつて誰かの
非常識な決断
から始まっている。
前例を守ることが
責任ではない。
前例を超えることに
名前を出すこと。
それが、
本当の責任である。
日本が変わるとき、
責任者は
初めて「現在」に立つ。



