騙され続ける国
日本は、二度「騙される構造」を経験してきた国である。
戦前は、教育によって。
戦後は、思想を骨抜きにすることによって。
戦前の日本では、国家が「正義」を独占し、教育を通じて国民の思考を一方向へと導いた。疑う力は「非国民」とされ、従うことが美徳とされた。その結果、個人の判断力は失われ、国家の過ちを止めるブレーキは消えた。
敗戦後、日本はその反省から民主主義を手にした——はずだった。
だが今度は別の形で、思考は奪われていく。
思想を持つこと自体が「面倒」「危険」「空気を乱すもの」とされ、政治は「任せておけばいいもの」へと変質した。考えない自由、選ばない安心。その引き換えに、私たちは再び「騙されやすい国民」へと戻っていった。
現代の国家権力は、かつてのように露骨な暴力を振るわない。
代わりに使うのは、「善人のふり」である。
国民のため。安全のため。未来のため。
美しい言葉の裏で、責任は曖昧にされ、不都合な事実は見えなくされ、都合のいい制度だけが静かに進行する。悪意は顔を出さない。ただ「仕方なかった」という形で、結果だけが積み上がっていく。
だからこそ、政治は「任せるもの」ではない。
政治とは、本来、監視され続ける前提でしか成立しないものだ。
信頼とは、白紙委任ではない。
監視し、問い続け、間違いを指摘し、時に怒ること。
それを放棄した瞬間、権力は必ず腐敗する。これは歴史が何度も証明してきた事実である。
騙され続ける国で終わるのか。
それとも、疑う力を取り戻す国になるのか。
その分岐点は、国家ではなく、一人ひとりの国民の姿勢にある。
政治に無関心でいることは、中立ではない。
それは、静かな加担なのだ。



