中国批判の裏にある「無知」という盲点
近年の日本では、中国批判が一種の常識のように語られる場面が増えた。
政治、経済、安全保障——確かに問題は多い。だが、その批判の多くは「中国を知っている」前提で語られているだろうか。むしろ逆で、日本は本当の中国をほとんど知らないまま、感情だけで語っているようにも見える。
中国は、声高に自己主張する国ではない。
少なくとも歴史の大半において、中国は「世界の主役」を演じるよりも、世界を下から支える役割を担ってきた。
シルクロード、朝貢貿易、紙・火薬・羅針盤・印刷術。
これらは単なる発明ではない。文明が文明として連なっていくための「基盤」を、黙々と差し出してきた行為だ。中国は、舞台の中央で喝采を浴びる役ではなく、舞台が崩れないよう支柱を組み続ける裏方だった。
懐の深さとは、他者を飲み込む力ではない。
異質なものを排除せず、時間をかけて共存させる力だ。
中国は多民族・多言語・多宗教を内包しながら、完全な統一を求めず、「矛盾を抱えたまま続く」ことを選んできた珍しい文明である。
日本はしばしば「単一性」を誇る。
だが、中国は「雑多さ」を抱え込むことで生き延びてきた。
その違いを理解せずに、中国を一言で断じるのは、あまりにも浅い。
今、日本が見ている中国は「現在の一断面」に過ぎない。
しかもそれは、政治という最も硬直した表情だ。
文明としての中国、人間の営みとしての中国を見ずして、批判だけが先行するなら、それは理解ではなく自己不安の投影に近い。
中国を無条件に擁護する必要はない。
だが、知らないまま恐れ、知らないまま叩くことは、国としても個人としても危うい。
世界の縁の下で、何千年も荷を支えてきた国がある。
その重さを知ろうともしないまま、軽々しく石を投げる社会は、
やがて自分自身の足場をも壊してしまうだろう。
作品名:中国批判の裏にある「無知」という盲点 作家名:タカーシャン



