回復を外注する時代に生きている
スーパー銭湯やサウナに行くと、
人は一様に穏やかな顔になる。
湯に浸かり、何も考えず、ただ呼吸をしている。
それだけのことで、人は驚くほど回復する。
だが、ふと思う。
なぜ私たちは、そこへ行かなければ回復できなくなったのか。
本来、人は日常の中で整う生き物だった。
家に帰れば湯があり、
夜には静けさがあり、
何もしない時間が自然に流れていた。
回復は「特別な行為」ではなく、生活そのものだった。
ところが今、日常は回復を拒む。
家にいても情報は止まらず、
休んでいても評価や不安が頭を支配する。
何もしていないと、どこか落ち着かない。
“役に立っていない自分”を責める声が、内側から聞こえてくる。
その結果、人は回復を外注する。
スーパー銭湯、サウナ、リラクゼーション施設。
そこは意図的に「休んでいい」と許可された空間だ。
裸になり、立場を脱ぎ、
生産性から一時的に解放される場所。
これは、人間が怠け者になったからではない。
むしろ逆だ。
頑張りすぎた結果、回復にも装置が必要になったのだ。
スーパー銭湯は悪くない。
よくできた場所だと思う。
人間の本能をよく理解している。
だが、それが「なければもたない」状態は、やはり健全とは言えない。
問題は施設ではない。
日常そのものが、常に戦闘態勢であることだ。
何もしないことに罪悪感が生まれ、
立ち止まると置いていかれる気がする社会。
回復が“非日常”になってしまったこと。
もし、家でぼんやりしても許され、
成果を出さない時間が尊重され、
ただ生きているだけで十分だと思える日常が戻れば、
スーパー銭湯は再び「楽しみの場」に戻るだろう。
今は違う。
あれは、現代人の避難所だ。
「そのような場所でしか回復できない時代は、問題ではないか」
この問いは、時代への非難であると同時に、
人間への信頼でもある。
人は本来、もっと自然に回復できる。
その感覚を忘れていない限り、
この社会はまだ、少しずつ修正できる。
湯気の向こうで、
静かに目を閉じている人々の顔を見ながら、
私はそう信じたいと思う。
作品名:回復を外注する時代に生きている 作家名:タカーシャン



