「無菌室」で死にゆくテレビ ―― 毒なき表現に明日はあるか
かつて、テレビは「鏡」であった。社会の不条理、人間の業、剥き出しの本音――。それらが画面越しに放つ「毒」に、我々は時に眉をひそめ、時に快哉を叫び、そこから社会のリアルを学んできた。しかし今、その画面から熱量が消え、漂っているのは三流週刊誌のような安っぽさと、作り物の「善意」だけである。
現在のテレビを支配しているのは、視聴者への誠実さではなく、スポンサーへの過剰な配慮とコンプライアンスという名の「臆病」だ。リスクを恐れるあまり、少しでも角のある表現は削られ、毒を持つ個性は排除される。残ったのは、台本通りに微笑む「記号」のようなタレントと、どこかで見たようなネット動画の切り貼りばかり。制作者が守っているのは放送倫理ではなく、自らの保身ではないのか。
「毒のない人間は一人もいない」。この至極真っ当な真理を、今のテレビは無視し続けている。人間本来のドロドロとした感情や失敗を「不適切」として封印し、清潔で無害な「いい人」だけを並べた世界。そこにはもはや、学びも共感も存在しない。無菌状態で育てられたコンテンツに、人の心を動かす力など宿るはずがないのだ。
視聴者はバカではない。予定調和の「リアル感ゼロ」な演出に、とっくに愛想を尽かしている。リスクを背負ってでも事実を突きつける覚悟を捨て、三流週刊誌の如きスキャンダリズムに逃げ込んだメディアに、もはや期待する言葉など持ち合わせていない。
テレビが自ら「人間」を表現することを放棄した今、その公共の電波は、ただの空虚なノイズを垂れ流す機械へと成り下がっている。毒を失った表現の先に待っているのは、緩やかな、しかし確実な「死」である。
作品名:「無菌室」で死にゆくテレビ ―― 毒なき表現に明日はあるか 作家名:タカーシャン



