認知症は、いつ始まるのか
認知症は、脳の病気だと説明される。
確かに医学的にはそうなのだろう。
だが、現場を見続けてきた人間には、どうしても腑に落ちない感覚が残る。
生涯にわたり必要とされ、
家庭の中で役割を持ち、
社会や地域の中で誰かに頼られ、
「あなたがいて助かった」と言われ続けてきた人が、
急に自分を見失っていく姿は、あまり見ない。
一方で、退職、引退、世代交代。
それらが一気に訪れたあと、
急速に元気を失い、
記憶よりも先に表情が薄れていく人がいる。
その違いは何か。
私はこう考える。
認知症は、「もう自分は必要とされていない」と
本人が自覚したところから始まるのではないか。
家庭で役目を外され、
社会から席を譲られ、
地域の行事から名前が消え、
いつの間にか「配慮される側」だけになる。
人は、守られすぎると、存在理由を失う。
何もしなくていい、考えなくていい、決めなくていい。
それは優しさの仮面を被った、静かな排除だ。
人間は、記憶で生きているのではない。
役割で、生きている。
今日、誰の役に立ったのか。
誰に必要とされたのか。
それを感じられなくなった時、
脳は世界との接点を失い始める。
だから本当の認知症予防とは、
脳トレでも、投薬でも、施設でもない。
「まだ頼んでいいですか」
「あなたにしか分からない」
「どう思いますか」
そう声をかけ続けること。
出番を残すこと。
決定権を渡し続けること。
高齢者を支える社会ではなく、
高齢者が社会を支え続ける構造を持てるかどうか。
そこに、この国の未来がかかっている。
認知症は、老いの問題ではない。
人を“不要”にする社会の問題なのだ。
作品名:認知症は、いつ始まるのか 作家名:タカーシャン



