小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
タカーシャン
タカーシャン
novelistID. 70952
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

喜びが家族に還るとき、社会は平和になる

INDEX|1ページ/2ページ|

次のページ
 
バイアスを自覚することから、社会は静かに変わり始める

私たちは「多様性が大切だ」という言葉を、すでに何度も聞いてきた。
ダイバーシティは正義であり、進歩であり、これからの社会に不可欠な価値だ――その理解自体は、もはや特別なものではない。

それでも現実を見ると、多様性は思うように機能していない。
なぜか。
その最大の理由が、「バイアス」という、目に見えない壁である。

バイアスは悪意ではない。
むしろ、人間が生き延びるために獲得してきた、脳の自然な働きだ。
過去の経験や成功体験をもとに、「こういう場合は、こうだろう」と瞬時に判断する。そのショートカットがなければ、私たちは日常生活すら立ち行かない。

問題は、その判断が無意識のまま他者を型にはめてしまうことにある。

「若いからできるだろう」
「年配だから難しいだろう」
「声が大きいからリーダー向きだ」

これらは一見、常識や経験則のように聞こえる。しかしその裏で、誰かの可能性を静かに削り取ってはいないだろうか。

ダイバーシティとは、単に人の属性が違うことではない。
違う視点、違う価値観、違う人生の重みが対等に扱われることだ。
ところがバイアスが強く働く組織では、「違い」は価値ではなく、ノイズとして処理されてしまう。

結果として起きるのは、採用や評価の偏り、意見の封殺、そして心理的安全性の低下だ。
少数派の人は声を潜め、多数派の「正しさ」だけが循環する。
その組織は一見、秩序立って見えるかもしれないが、内部では静かに思考が硬直していく。

皮肉なことに、ダイバーシティを掲げる組織ほど、
「自分たちは多様性を理解している」という思い込みに陥りやすい。
その思い込み自体が、最も厄介なバイアスになる。

だからこそ重要なのは、正解を持つことではない。
立ち止まる姿勢を持つことだ。

「本当に今の判断は公平だろうか」
「この違和感は、事実ではなく思い込みではないか」
「自分が安心できる価値観だけを、守ろうとしていないか」

こうした問いを、自分自身に向けられるかどうか。
そこに、ダイバーシティが“理念”で終わるか、“力”として機能するかの分かれ目がある。

バイアスは消せない。
だが、意識することはできる。
その小さな自覚の積み重ねが、人を黙らせる社会から、人を活かす社会へと、静かに舵を切っていく。

ダイバーシティとは、他者を理解する運動ではない。
自分の思考の癖を疑う、内向きの勇気から始まるものなのだ。



「続けていい」という許可が、まだ必要な社会で

女性が社会に参加することは、もはや特別なことではない。
それでも、「子育てをしながら総合職として働き続ける」こととなると、空気は一変する。

「大変でしょう」
「無理しないで」
「どこかで区切りをつけるの?」

これらの言葉は、心配を装った善意の顔をしている。
だがその裏には、はっきりとした前提がある。
――続けるのは例外で、離れるのが自然だという前提だ。

この前提こそが、社会に深く染みついたバイアスである。

子どもが熱を出せば、母親が呼ばれる。
時短勤務を選ぶのは、多くが女性だ。
昇進の話になると、「今は家庭が大変だから」と、本人の意志とは無関係に外される。

誰も「やめろ」とは言わない。
ただ、続けにくくする仕組みと空気が、静かに積み重なっている。

本来、子育てと仕事は対立するものではない。
それは「人生を同時進行で生きている」だけのことだ。
男性が家庭を持ちながら働くことが当然であるように、
女性が子どもを育てながら総合職として責任ある仕事を担うことも、特別扱いされる理由はない。

にもかかわらず、「両立できてすごい」という言葉が出る社会は、
まだそれを当たり前だと認識できていない社会なのだ。

真に成熟した社会とは、誰かの選択を称賛する社会ではない。
選択そのものに、いちいち意味づけをしない社会である。

子育てをしながら働く女性が評価されるのは、
「母親だから」でも「女性だから」でもない。
成果を出し、責任を果たしているからだ。
それ以上でも、それ以下でもない。

そして重要なのは、女性だけに「頑張らせない」ことだ。
制度、職場文化、評価基準、家庭内の役割分担――
それらすべてが、「誰かの犠牲」を前提にしていないかを問い直す必要がある。

女性が仕事を続けられる社会は、
同時に、男性が育児に参加できる社会でもある。
片方だけが背負う構造は、結局どちらも疲弊させる。

「続けてもいい」
「辞めなくていい」
「選び直してもいい」

そうした言葉すら、やがて不要になる社会。
子育てをしながら総合職として働き続けることが、
ただの人生の一形態として、風景の一部になる社会。

それは特別な理想ではない。
社会がようやく、人の生き方に追いついた状態なのだ。

その日が「先進的」ではなく、「普通」と呼ばれるようになること。
それこそが、本当の意味での進歩なのだと思う。



喜びが一つに限定される社会は、誰のためだろうか

女性の喜びは、長いあいだ「家族」に集約されてきた。
良き母であること、良き妻であること。
それは尊い。否定されるべきものではない。

けれど、それだけで十分だと決めつける社会は、どこか不自然だ。

人は本来、誰かの役に立ちたい存在である。
自分の力が社会に届いたと実感したとき、
昨日の自分を少し超えたと感じたとき、
そこに生まれる喜びは、性別によって分けられるものではない。

にもかかわらず、女性に対してだけ
「もう十分でしょう」
「家族がいれば幸せでしょう」
という空気が漂うのはなぜだろう。

それは優しさではない。
可能性に蓋をする静かな諦めだ。

家族を大切にすることと、社会に関わることは、対立しない。
成長を望むことと、愛情深くあることも、相反しない。
その二つを天秤にかけさせる発想そのものが、
古い価値観の名残なのだと思う。

社会貢献とは、立派な肩書きや大きな成功だけを指す言葉ではない。
働くこと、創ること、考えること、支えること。
その人なりの形で社会と接点を持ち、
「自分はここにいていい」と実感できることだ。

成長も同じだ。
昨日より少し視野が広がること、
できなかったことができるようになること、
自分の内側に新しい言葉が生まれること。

それらは、年齢や性別に関係なく、
人として必要な栄養のようなものだ。

もし喜びが家族だけに限定されるなら、
その人の世界は、あまりにも狭くなる。
そして皮肉なことに、
その閉じた世界は、やがて家族にとっても重荷になる。

一人の人間が、自分の人生に手応えを持って生きていること。
その姿こそが、最も健やかな愛情の形ではないだろうか。

女性が社会で喜びを見つけ、成長を続けることは、
家族を蔑ろにすることではない。
むしろ、より豊かな視点と強さを家庭に持ち帰ることなのだ。

喜びは一つである必要はない。
役割で限定されるものでもない。

女性の人生は、誰かのためだけに消費されるものではなく、
本人自身が広げていくためのものだ。

その当たり前を、当たり前として受け取れる社会であってほしい。