国民あっての国
――現場主義という、いちばん当たり前の思想
世の中が複雑になるほど、
人は「上からの正しさ」に安心しようとする。
制度、手続き、前例、数値。
それらが揃っていることが、
まるで正義であるかのように扱われる。
だが、私はずっと違和感を抱いてきた。
現場にいない正しさは、
人の体温を持たない。
机の上で完成した答えは、
生活の重さを知らない。
官僚主義が嫌いなのは、
冷たいからではない。
人が消えるからだ。
目的よりも手段が偉くなり、
人よりも書類が優先され、
責任よりも保身が守られる。
そこでは誰も悪くないが、
誰も幸せにならない。
本来、国とは何か。
それは主役ではない。
国民が生きるための「器」にすぎない。
国民あっての国。
これは理想論でも、感情論でもない。
上下が逆転していないかを問う、
ごく基本的な確認作業だ。
現場は末端ではない。
現場こそ最前線である。
庶民の暮らしは、
国家の結果そのものだ。
もし国がうまくいっているのなら、
人々の生活は軽やかなはずだ。
もし国が強いのなら、
庶民は怯えていないはずだ。
それでも現実はどうだろう。
疲れ、分断され、
声を上げることすら諦めている。
だから私は思う。
これから大事なのは、
「上を変えること」よりも、
下をつなぐことだと。
国境を越えて、
同じように働き、悩み、
家族を守ろうとしている庶民同士が
生活感覚でつながる。
権力でも、資本でもなく、
日々の現実を基準にした
庶民の世界的ネットワーク。
それは大きな革命ではない。
静かで、目立たず、
しかし確実に世界の底力になる。
国家は、人の上に立つものではない。
人の足元にあるものだ。
現場の声を拾い、
庶民の感覚を尊重し、
人が人として生きられる場所を守る。
それができない制度なら、
制度のほうが修正されるべきだ。
「それは違う」と言えることは、
反抗ではない。
思考を手放していない証拠だ。
私はただ、
人が消えない世界を望んでいる。
それだけだ。



