集まりのデイサービス化と、若者が離れていく理由
高齢化社会において、あらゆる「集まり」が変質している。
本来は意思決定や創造、前進のためにあった会合が、いつの間にか居場所提供の場になってはいないだろうか。
予定を入れる。
人と顔を合わせる。
話すこと自体が目的になる。
それはまるで、社会版デイサービスのようだ。
もちろん、高齢者の居場所は必要であり、
孤立を防ぐ場としての価値を否定するものではない。
問題は、それが仕事や組織の「公式の集まり」に混入していることにある。
目的が曖昧でも続く会合。
結論が出なくても成立する場。
欠席しても支障がないのに、なぜか定例で開かれる集まり。
そこでは「前に進む力」よりも
「続いている安心感」が優先される。
若者は敏感だ。
その場が成長の場か、停滞の場かを、言葉より先に空気で察知する。
学びがない。
決定がない。
責任の所在も曖昧。
そうした空間に、未来を感じる理由はない。
結果として若者は離れる。
不満を言わず、対立もせず、ただ静かに去っていく。
世代間の問題ではない。
集まりの目的を失った社会構造の問題だ。
集まりは、癒しの場ではない。
本来は、前進のための装置である。
もし癒しが目的なら、
それは正しく、別の場所で用意すればいい。
集まりの意味を取り戻せるかどうか。
それが、若者がこの社会に留まるか離れるかの分岐点なのかもしれない。
作品名:集まりのデイサービス化と、若者が離れていく理由 作家名:タカーシャン



