不参加OKの会合は、本当に必要なのか
「仕事で不参加でも構いません」
そう前置きされる会合が、あまりにも多い。
その一言が示しているのは配慮ではない。
その会合自体が“欠席されても困らない内容”であるという自己申告だ。
本来、時間とは最も重い資源である。
仕事の時間、生活の時間、人生の時間。
それを使ってまで人を集める行為は、相応の覚悟が必要だ。
にもかかわらず、
「来られる人だけで」
「情報共有です」
「顔合わせです」
という曖昧な理由で人を呼ぶ。
これは丁寧さではない。
むしろ失礼に近い。
もし欠席しても支障がないなら、
それは資料で済む話であり、
メール一通で終わる内容であり、
各自が必要なタイミングで確認すればよい情報だ。
それでも“集まる”ことに固執するのはなぜか。
・会合を開いたという実績が欲しい
・人を動かしている感覚が欲しい
・決めた感を出したい
・管理している安心が欲しい
つまり、目的は会合そのものになっている。
本来、会合とは
「全員が欠席できない理由がある」
「そこに参加しないと決定・判断・責任が成立しない」
そのレベルに達して初めて、招集が許される。
欠席しても問題ない会合を重ねるほど、
組織は時間に鈍感になり、
現場は疲弊し、
本当に必要な集まりの価値まで下げてしまう。
集めることは、力ではない。
集めない判断こそが、成熟である。
人を呼ぶなら、覚悟を持って呼べ。
欠席が許される内容なら、最初から集めるな。
それが、時間を尊重するということだ。
そして、人を尊重するということでもある。
作品名:不参加OKの会合は、本当に必要なのか 作家名:タカーシャン



