会合が仕事になるとき、組織は静かに壊れ始める
組織活動の会合のために、仕事を休む。
この行為に、私は強い違和感を覚える。
本来、仕事とは価値を生み、成果を出し、誰かの役に立つ行為のはずだ。
組織活動や会合は、その仕事を円滑に進めるための「手段」であり、「補助」である。
ところがいつの間にか、主と従が入れ替わっている。
会合に出るために仕事を止める。
仕事を犠牲にしてまで、組織に集まる。
この瞬間、会合はもはや仕事を支えるものではなく、仕事そのものになっている。
なぜ、この矛盾が蔓延し、しかも継続しているのか。
答えは単純だ。
それは、組織運営側にとっての「仕事」だからである。
現場の仕事が成果や価値で評価されるのに対し、
運営側の仕事は「回していること」「集めていること」「開催していること」で成り立つ。
会合は成果を生まなくてもよい。
開催され、参加者が揃い、形式が保たれれば、それで任務完了だ。
だから会合は減らない。
だから中身は問われない。
だから仕事を休んででも集まることが、合理的な行動になる。
この構造が続くと、組織は静かに老化する。
会合は増え、仕事は遅れ、現場は疲弊する。
若手は学ばず、優秀な人ほど距離を置き、やがて去っていく。
残るのは「会合に強い人」だけだ。
動いているように見えて、何も前に進まない。
忙しさだけが膨らみ、価値は痩せていく。
本来、信頼がある組織では会合は少ない。
任せられるから集まらなくていい。
結果で判断できるから、顔を揃える必要がない。
会合が増えるということは、
人を信じられなくなっている証拠であり、
組織そのものが不安定になっている証でもある。
仕事を休んでまで行う会合は、
もはや仕事ではない。
それは儀式であり、存在証明であり、
組織が自分自身を安心させるための行為にすぎない。
この矛盾に違和感を覚える感覚は、健全だ。
それは、まだ仕事の本質を見失っていない証拠である。
会合が仕事になるとき、
組織は静かに壊れ始めている。
その兆候に気づけるかどうかが、
人と組織の分かれ道になる。
会合で安心する組織が、未来を失っていく
人を集める。
集めて「やっている感」を出す。
そして運営側は安心する。
だが、その安心はどこにも届いていない。
現場にも、未来にも、社会にも。
組織活動の会合のために仕事を休む――
この矛盾が当たり前のように続いている背景には、
集めること自体が目的化した構造がある。
本来、会合は仕事を前に進めるための手段だ。
ところがいつの間にか、
会合を開くこと、参加者を揃えること、
形式を保つことが「成果」になってしまった。
運営側にとっては、それが仕事だからだ。
集めた。
話した。
議事録を残した。
だから「やった」。
この一連の流れが、
組織を動かしているという錯覚を生み、
運営側に安心感を与える。
しかしその安心は、表面を滑っているだけだ。
中身がないまま、上滑りしている。
そして、この上滑りこそが怖い。
なぜなら、
今の日本は少子高齢化社会という
これまでと真逆の対応を求められる時代に入っているからだ。
人が減る社会で、
一律に集め、同じ説明をし、同じ対応をする。
これは効率的に見えて、実は最も非効率だ。
本当に必要なのは、
• 多様性を前提にすること
• 一人ひとりを見ること
• 個別に対応すること
• 任せ、信じ、委ねること
集めるより、分ける。
揃えるより、活かす。
管理するより、理解する。
それにもかかわらず、
会合中心の組織は真逆のことを続けている。
人を集めることで安心し、
個を見ることを避け、
複雑さから目を背ける。
その結果、
現場は疲弊し、
若手は育たず、
優秀な人ほど去っていく。
残るのは、
「会合を回せる人」だけだ。
会合が増える組織は、
人を信じられなくなっている組織である。
信頼がないから集まる。
不安だから顔を揃える。
だが、少子高齢化社会において
集めて安心する組織に未来はない。
仕事を休んでまで行う会合は、
もはや仕事ではない。
それは儀式であり、
存在証明であり、
不安を覆い隠すための集団行動にすぎない。
この違和感に気づけるかどうか。
そこが分かれ道だ。
集めてやっている感に安心するのか。
それとも、一人ひとりと向き合う覚悟を持つのか。
組織の未来は、
会合の数ではなく、
個をどれだけ尊重できるかで決まる。
作品名:会合が仕事になるとき、組織は静かに壊れ始める 作家名:タカーシャン



