未完成で、踊れ。
『グリース』が輝いていたのは、
不良がカッコよかったからではない。
歌がうまかったからでも、
恋が成就したからでもない。
あの映画には、
「若さは、それだけで騒いでいい」
という許可があった。
令和には、その許可がない。
間違えるな、失敗するな、
叩かれるな、記録されるな。
若者は静かで、礼儀正しく、
でも内側では常に緊張している。
叫ばない代わりに、
イヤホンを深く差し込む。
踊らない代わりに、
画面をスクロールする。
令和の若者は大人しいのではない。
出してはいけない空気に慣れすぎただけだ。
グリースの世界では、
校舎も車も恋も、
すべてが舞台だった。
令和の舞台は、
コンビニの駐車場であり、
取り壊し前の空き地であり、
誰にも撮られない夜だ。
拍手はない。
バズりもしない。
それでも、
身体だけは嘘をつかない。
揃わない動き、
ぎこちないステップ、
意味不明なリズム。
それでいい。
それこそが、生きている証拠だからだ。
令和の青春には、
明確なゴールがない。
付き合うのか、
夢を持つのか、
成功するのか。
わからないまま、
隣に座っている。
好きとも言わず、
離れもしない。
不安定で、
不完全で、
それでも温度はある。
グリースが教えてくれたのは、
「カッコよく生きろ」ではない。
「未完成のままでも、踊れ」
ということだった。
もし令和にグリースが生まれるなら、
それは大音量でも、
派手なフィナーレでもない。
夜明け前、
誰もいない場所で、
スピーカー一台。
そして、
最後に音が止まる。
無音の中で立っている自分を、
初めて否定しない。
それが、
令和の青春映画だ。



