余力の差を無視した「平等」は、公平ではない
社会活動や宗教活動、ボランティアの現場では、しばしば「参加は平等」という言葉が使われる。しかし本当にそうだろうか。
活動を本業としている人、時間や体力に余裕のある人と、仕事や子育て、介護を抱えながら関わる人とでは、置かれている条件がまったく違う。にもかかわらず、同じ責任、同じ期待、同じ自己管理を求めることは、公平とは言えない。
余力のある人にとっての「少し無理」は、余力のない人にとっては生活を崩すほどの負担になる。だがその差は、表に出にくい。なぜなら、多くの場合「自分で選んだ参加」という言葉が、すべてを自己責任として包み込んでしまうからだ。
ここで問われるべきは、「平等かどうか」ではなく、「配慮があるかどうか」である。
組織活動としての責任とは、全員に同じ量を課すことではない。それぞれの生活状況に応じて、関わり方に幅を持たせることだ。本業として担う人と、限られた時間で支える人を同列に扱うことは、結果として後者を排除する。
持続可能な活動とは、頑張れる人だけが残る仕組みではない。
「今は余力がない人も、関われる余白を残すこと」こそが、組織の成熟度を示す指標である。
参加の濃淡を認める。休むこと、距離を置くことを正当な選択肢として用意する。それを個人の判断に委ねず、組織が引き受ける。
それは甘さではない。
人の生活を現実として捉える、責任ある運営である。
作品名:余力の差を無視した「平等」は、公平ではない 作家名:タカーシャン



