因果と転換
――苦難は、思想を正すために起こる――
人は苦難に意味を求める。
なぜ自分が、なぜこの地域が、なぜこの国が――と。
因果という視点に立てば、
起きている出来事はすべて「結果」である。
偶然のように見える悲劇も、突然の不幸も、
長い時間の中で積み重なった選択と判断の帰結だ。
この考え方は、ときに冷酷に響く。
「すべて自分のせいだ」と受け取れば、
人は簡単に自分を責め、潰れてしまう。
しかし、因果とは裁きではない。
引き受けるための視点である。
誰かを罰するためでも、
過去を悔やみ続けるためでもない。
ここから先を変えるために、
現実を自分の問題として抱えるという覚悟だ。
苦難は、個人だけに起こるものではない。
地域にも、国にも起こる。
過疎、分断、停滞、対立、硬直した制度。
それらは自然災害のように突然現れたのではない。
長年放置されてきた思想の歪みが、
環境として具現化した姿である。
思想が歪めば、判断が歪む。
判断が歪めば、制度が歪む。
制度が歪めば、空気が歪む。
空気が歪めば、人は疲弊し、苦難が日常になる。
環境が人を苦しめているように見えて、
実は思想が環境を作り続けている。
「大悪は大善に転換する」
この言葉は、希望でも逃避でもない。
ただし一つ、はっきりしていることがある。
大悪は、自動的に大善にはならない。
苦難そのものに意味が宿っているわけではない。
意味は、人が後から与える。
逃げれば、苦難は傷のまま残る。
恨めば、悪は連鎖する。
だが、見つめ、言葉にし、構造として捉え、
改善へ向けて動かしたとき、
それは初めて「善」に変質する。
改善とは、優しさではない。
正気を取り戻す行為だ。
「昔からこうだ」
「みんなやっている」
「仕方がない」
これらはすべて、
歪みが自分を守るために発する言葉である。
歪みを正すとは、
誰かを否定することではない。
現実に対して誠実であろうとすることだ。
苦難が意味を持つ瞬間は、
それが報われたときではない。
「これは、誰かの役に立つ」
そう気づいたとき、
苦難は個人史を超え、公共の知へと昇華する。
個人の痛みは、生き方の更新になる。
地域の失敗は、文化の見直しになる。
国の混乱は、教育や制度を再設計する材料になる。
耐えただけでは、何も変わらない。
だが、歪みを見抜き、言葉にし、
改善しようとする意思が加わったとき、
苦難は未来をつくる資源になる。
因果は、運命論ではない。
因果は、舵である。
過去は変えられない。
だが、思想は正せる。
思想が正されれば、環境は変わる。
環境が変われば、次の世代の苦難は減る。
苦難は、より良くなるために起こる。
ただしそれは、
正そうとする人がいる場合に限る。
そうでなければ、
同じ歪みは形を変えて繰り返されるだけだ。
だから語る。
だから書く。
だから考え続ける。
それ自体が、
大悪を大善へと転換する
人間の仕事なのだから。



