軸を持つということ
――環境に生きるか、環境を生き抜くか
人は皆、何かに囲まれて生きている。
家庭、仕事、立場、年齢、時代、空気。
それらは安全である一方、静かに人を縛る。
多くの人は、知らず知らずのうちに
「環境に合わせること=生きること」だと思い込む。
家庭がこうだから、
仕事がこうだから、
世の中がこうだから――と。
だが、それは生きているのではなく、
配置されているだけかもしれない。
軸のない人生は、楽だ。
考えなくていい。
逆らわなくていい。
責任を環境に預けられる。
しかしその代わりに、
自分で決めたという感覚だけが、
少しずつ失われていく。
気づいたときには
「こんなはずじゃなかった」と思うが、
では「どんなはずだったのか」は
誰にも答えられない。
軸とは、強さではない。
正しさでもない。
ましてや、他人に誇れる理念でもない。
何度流されても、戻ってこられる一点。
それが軸だ。
家庭が壊れそうなとき、
仕事を失ったとき、
役割が終わったとき、
年を重ね、名前が薄れていくとき。
そのときに
「それでも自分は、こう在りたい」
と言える何かがあるかどうか。
環境に左右されて生きるか。
環境に影響を与えて生きるか。
この二択は、
声を上げるか沈黙するか、
成功するか失敗するか、
そんな単純な話ではない。
小さな場でいい。
家庭の空気を少し変える。
職場の言葉の温度を一度下げる。
誰か一人を、黙って見守る。
それだけで、人はもう
環境の一部ではなく、要因になる。
年を重ねるほど、
肩書きは外れ、
役割は減り、
自由と孤独が同時にやってくる。
そのとき最後に残るのは、
貯金でも人脈でもなく、
自分がどこに立ち戻れるかという感覚だ。
軸がある人は、老いない。
変わるだけだ。
軸がない人は、老いる前に
自分を見失う。
人生は、環境に勝つための競技ではない。
環境に飲み込まれず、
それでも争わず、
静かに立っていられる場所を
自分の中に持つこと。
それを、人は
「軸がある」と呼ぶ。



