正月は国家公認の飲み会である
正月を楽しめる人は誰か。
答えは単純だ。
酔える人である。
正月は「伝統行事」の顔をしているが、
実態は国家公認の飲み会だ。
飲む人が主役で、
飲まない人が空気を保ち、
段取りと後始末は見えない誰かが引き受ける。
その「誰か」に、
毎年ほぼ例外なく視線が落ちる。
お母さんである。
正月くらい休めと言われながら、
休めない構造が最初から組み込まれている。
料理は自然発生せず、
団らんは自動生成されず、
笑顔も放っておけば生まれない。
だが不思議なことに、
誰がそれをやっているかは話題にならない。
なぜなら日本社会は、
「気づかれずに支える人」を前提に作られてきたからだ。
正月はその縮図である。
会社の飲み会と同じで、
楽しめない人ほど責任を背負い、
何もしない人ほど満足して帰る。
問題は正月ではない。
問題は、
負担を文化にすり替えてきた国の感覚だ。
「伝統だから」
「家族だから」
その言葉で、
どれだけの労力が無償化されてきたのか。
正月を美しい行事として守りたいなら、
まず壊すべきは幻想である。
団らんは自然ではない。
誰かの犠牲の上に成り立っている。
その現実に目を向けない限り、
正月は祝いではなく、
ただの後始末行事でしかない。
作品名:正月は国家公認の飲み会である 作家名:タカーシャン



