米価を放置する国が、誰を見ているのか
物価高そのものには、意味がある。
需要と供給、世界情勢、為替、構造転換。
痛みを伴うが、経済が動いている証でもある。
しかし――
主食である米の価格高騰を放置していることは、別次元の話だ。
ここに、この国の本質が露呈している。
米は嗜好品ではない。
贅沢でも、選択肢の一つでもない。
生活の土台であり、最後の砦である。
その価格が上がり続けても、
どの政党からも「生活者の目線」が見えてこない。
1ミリも、見えてこない。
見えてくるのは、
国民ではなく「支持者」の顔色。
票を動かす影響力のある企業、
組織、団体、人物の都合。
政治はいつの間にか、
「暮らしを守る装置」ではなく
「関係者を守る装置」になってしまった。
だから、話が噛み合わない。
だから、苦しみが届かない。
もし本当に国民の生活を理解したいなら、
方法はひとつしかない。
国会議員の生活水準を、庶民レベルに下げることだ。
同じスーパーで買い物をし、
同じ価格の米に手を伸ばし、
電気代を気にし、
子どもの食費に悩む。
それを一年でも経験すれば、
米価を「市場に任せる」などという言葉は
口が裂けても出てこないはずだ。
主食を守れない国は、
国民を守っているとは言えない。
米の値段は、
この国の政治が
誰を見ているのかを測る、リトマス試験紙なのである。
作品名:米価を放置する国が、誰を見ているのか 作家名:タカーシャン



