なぜ私たちは、何もない時間を怖がるのか
現代社会は、異様なほど日程を埋めたがる。
空白は危険、余白は無能、何もない時間は怠慢。
そう刷り込まれた人間たちが、
予定と決定事項を安全柵のように並べて生きている。
埋まったスケジュールは、行動の証明であり、
決まった結論は、存在の免罪符になる。
「私は動いている」
「私は判断している」
その自己確認のために、人は今日も何かを入れ、何かを決める。
だがそれは、生きている証明ではない。
不安から目を逸らしている証拠にすぎない。
迷いは排除される。
立ち止まりは評価を落とす。
考えている時間は「生産性がない」と切り捨てられる。
こうして社会全体が、
思考を止める構造を自ら強化していく。
会議は増えるが、問いは減る。
決定は早まるが、責任は薄まる。
決まっていることに従う人間は増え、
なぜそれをするのかを問う人間は消えていく。
精密な機械に遊びがなければ、
わずかなズレで破壊が始まる。
人間社会も同じだ。
余白を許さない仕組みは、
効率的に見えて、内部から崩れる。
埋め続け、決め続ける社会は、
柔軟さを失い、他者を許せなくなる。
予定を乱す人間は敵になり、
迷いを持ち込む人間は邪魔者になる。
その先に待っているのは、
秩序ではない。
窒息である。
本当の問題は忙しさではない。
空白に耐えられない精神構造を、
社会全体で正解にしてしまったことだ。
何も決めない時間を持てるか。
何も生まない日を肯定できるか。
そこに耐えられない社会は、
いずれ変化にも、異物にも、未来にも耐えられなくなる。
埋めることで得た安心は、
静かに思考を殺す。
そして、考えない人間ほど、
「正しさ」を振り回すようになる。
作品名:なぜ私たちは、何もない時間を怖がるのか 作家名:タカーシャン



