年を重ねた国から、若い世界へ
世界の平均年齢を「中央値」で見ると、
この地球は、まったく別の顔を同時に持っていることがわかる。
日本の年齢中央値は、約50歳。
世界でも最上位クラスの「大人ばかりの国」だ。
一方で、ニジェール、チャド、マリ、ソマリア――
アフリカ諸国の中央値は、15〜16歳前後。
世界の半分が、まだ10代の途中にいる。
同じ時代、同じ地球、同じ21世紀。
それなのに、人生の時間軸はここまで違う。
高齢化が進んだ国では、
「どう支えるか」「どう縮めるか」「どう終えるか」が語られる。
制度、介護、医療、年金、効率、最適化。
社会全体が、“減っていく前提”で設計されている。
対して、若い国では違う。
学校、仕事、都市、エネルギー、インフラ。
すべてが、“これから増える前提”で動き出す。
希望とは、抽象的な言葉ではない。
それは、人口構造という、
もっとも冷酷で、もっとも正直な数字に宿る。
20世紀後半、世界の成長エンジンはインドだった。
若さ、人口、労働力、勢い。
だがその流れは、いま確実にアフリカへ向かっている。
アフリカは「遅れている大陸」ではない。
「これからの時間を、最も多く持っている大陸」だ。
もちろん、課題は山ほどある。
貧困、紛争、教育、医療、気候変動。
だが、それらはすべて
「未来があるからこそ、問題として存在している」。
高齢社会の不安は、
「もう増えない」という前提から生まれる。
若い社会の混沌は、
「まだ決まっていない」という余白から生まれる。
どちらが希望か。
答えは、静かに数字が教えてくれる。
世界の中央値は、30歳前後。
日本は、世界の“未来”ではない。
むしろ、世界の「行き着いた先」を先に体験している国だ。
だからこそ、私たちにできる役割がある。
若さを競うことでも、成長を誇ることでもない。
老いを生き抜いた知恵を、若い世界に手渡すこと。
21世紀は、アフリカの時代になる。
それは楽観ではなく、人口という現実が示す必然だ。
希望は、声高に叫ばなくてもいい。
希望は、
静かに、確実に、
若い場所へと移動している。
高齢国家・日本の役割論
――世界でいちばん早く老いた国として
日本は、世界で最も早く「高齢国家」になった。
それは誇りでも自慢でもない。
ただ、事実だ。
年齢中央値は50歳に迫り、
社会の半分が人生の後半を生きている。
世界を見渡せば、これは極めて特殊な状態である。
多くの国が、
「どう増えるか」「どう伸びるか」「どう若さを活かすか」
を考えている中で、
日本だけが
「どう縮むか」「どう支えるか」「どう終えるか」
を、現実として引き受けてきた。
この立場は、不利だろうか。
本当に、そうだろうか。
高齢化とは、失敗の結果ではない。
医療、衛生、教育、平和。
人が長く生きられる社会を、
本気で積み上げてきた結果だ。
日本は、
「人類が長生きしたら何が起きるか」を、
世界で最初に体験している国なのである。
もちろん、苦しみはある。
年金、医療、介護、孤独、地域の衰退。
制度は軋み、現場は疲弊している。
だが、ここで問うべきは
「なぜ日本だけが苦しいのか」ではない。
「この苦しみを、世界の未来にどう使うか」
である。
これから世界は、必ず高齢化する。
今は若いアフリカも、
いずれ同じ問いに直面する。
人が長く生きるという“成功”は、
必ず“設計のやり直し”を要求するからだ。
日本には、すでに答えの断片がある。
・地域で支え合う仕組み
・医療と生活をつなぐ知恵
・年齢で役割を切らない働き方
・老いと尊厳を同時に守る感覚
どれも、完璧ではない。
だが「やってきた国」だけが持つ、実地の知恵だ。
若い国が持っているのは、エネルギー。
日本が持っているのは、経験と失敗の蓄積である。
21世紀の世界は、
若さだけでも、知識だけでも回らない。
必要なのは、
「最後まで生き切る社会」を設計できる視点だ。
日本の役割は、先頭を走ることではない。
旗を振ることでもない。
少し先で、転び方と立ち上がり方を見せることだ。
高齢国家とは、
未来がない国ではない。
未来を、誰よりも早く引き受けた国である。
だから日本は、
小さくなることを恥じなくていい。
若くないことを、隠さなくていい。
世界がこれから通る道を、
もう歩いてしまった国として、
静かに、だが確かに、
次の世代に道標を置いていけばいい。
それが、
世界でいちばん早く老いた国に与えられた、
役割なのだから。
若い国に、日本は何を渡せるのか
若い国に、年老いた国は何を渡せるのか。
資金か。技術か。制度か。
それらは確かに必要だが、
それだけなら、日本でなくてもいい。
日本が本当に渡せるものは、
「長く生きる社会を、どう壊し、どう直してきたか」
その記録である。
日本は、成功と同時に失敗を経験した。
長寿を実現し、少子化を止められず、
家族を小さくし、地域を弱らせ、
その後で、支え直そうとしている。
この順番を、
世界はまだ知らない。
若い国は、いま「成長」の途中にある。
都市は膨張し、人は集まり、
スピードと効率が称賛される。
だが、その先には必ず
「疲れた社会」が現れる。
日本はすでに、
速く走りすぎた社会がどうなるかを知っている。
だから渡せるのは、
「こうすればうまくいく」という成功モデルではない。
むしろ
「これを急ぎすぎると、後で必ず歪む」
という警告だ。
・家族機能を市場に丸投げした結果
・地域を効率で切り捨てた末路
・年齢で役割を奪った社会の孤独
・正しさを優先しすぎた息苦しさ
これらは、統計では伝わらない。
生きた国の体験でしか語れない。
若い国が本当に欲しているのは、
「若さをどう使い切るか」ではない。
「若さが終わったあと、社会をどう保つか」
その設計図だ。
日本は、老いを隠さない。
衰退をごまかさない。
うまくいかなかったことを、
うまくいかなかったまま差し出す。
それは弱さではない。
未来への礼儀である。
援助とは、
上から与えることではない。
先に通った道を、
そのまま開示することだ。
若い国は、きっと日本を真似しない。
だが、日本の失敗を知った上で、
自分たちの選択を少しだけ変えるだろう。
それでいい。
それが、渡すということだ。
日本は、
世界の模範になる必要はない。
世界の「説明書」になればいい。
長く生きた社会の、
擦り切れたページも、
書き直した余白も、
すべて含めて。
若い国が未来を描くとき、
その机の片隅に、
日本という国の経験が
静かに置かれていれば、それでいい。
作品名:年を重ねた国から、若い世界へ 作家名:タカーシャン



