楽しいはずなのに、空っぽ
楽しいことは、もう十分すぎるほどある。動画は止まらず、音楽は溢れ、笑いも刺激も指先一つで手に入る。少し疲れたら「自分にご褒美」を与え、嫌な現実からは軽やかに距離を取る。それは賢い生き方のようにも見えるし、時代に適応した姿にも見える。
だが、不思議なことが起きている。楽しいはずなのに、心が満たされない。むしろ、楽しめば楽しむほど、夜の静けさの中で空っぽさが浮かび上がる。何かを失ったわけではないのに、何も残っていない感覚。これは個人の弱さではなく、令和という時代が抱える構造的な疲労なのだと思う。
娯楽は本来、人生を豊かにするためのものだった。しかし今の娯楽は、苦しさを考えないための「逃げ場」として機能している。逃げること自体は悪くない。問題は、逃げ続けることで、自分が何から逃げているのかさえ見えなくなることだ。楽しさで埋めた時間の奥に、向き合うべき問いが置き去りにされていく。
さらに厄介なのは、娯楽が「比較」とセットになっている点である。誰かの楽しそうな姿を見て、自分の満たされなさを測ってしまう。楽しいかどうかは、他人基準で判定され、自分の感覚は鈍っていく。こうして人は、満たされるために楽しむのではなく、不安を感じないために楽しむようになる。
人を本当に満たすものは、たいてい手間がかかる。人と関わり、失敗し、待ち、育てる。すぐ結果は出ないし、効率も悪い。だがそこには、終わったあとに残るものがある。安心感や手応え、自分がここにいていいという静かな確信だ。
楽しいはずなのに空っぽだと感じたなら、それは感覚が壊れたのではない。むしろ、心がまだ正直である証拠だ。刺激を足すのではなく、立ち止まり、減らし、感じ直す時代に、私たちは差しかかっているのかもしれない。
作品名:楽しいはずなのに、空っぽ 作家名:タカーシャン



