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青の砂時計

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第四章 干渉の代償


 朝の光が研究所の白壁を淡く染めていた。
 洋子は机の上に置かれた砂時計を見つめながら、しばらく動けずにいた。
 昨日、彼女は三度、砂を落とした。
 コーヒーをこぼしたことを取り消し、遅刻をなかったことにし、会話の言い間違いを修正した。
 それだけのはずだった。
 けれど、今朝目覚めたとき、何かが違っていた。
 空気が薄い。部屋の匂いが変わっている。
 壁のカレンダーは確かに昨日と同じ日付を示しているのに、見慣れた風景が少しだけ歪んで見えた。
 ノートを開く。
 実験記録の端に、昨夜書いたはずの「観測値:−3分」が消えている。
 代わりに、走り書きのような青い線が残されていた。
 ペンではない。何か光を引きずったような筆跡。
 その瞬間、洋子の背筋に冷たいものが走る。
 確かに彼女は、時間を三度、巻き戻した。
 その代償が、今、形を変えて現れている。
 午前の研究会。
 同僚たちの顔はいつも通りで、笑い声も変わらない。
 けれど、話題が妙にかみ合わない。
 昨日、誰もが熱心に議論していたはずの「地層試料のスペクトル異常」について、誰一人として触れなかった。
 洋子が口に出すと、彼らは揃って首をかしげた。
 「そんな実験、してたっけ?」
 笑って言われたその言葉が、冗談に聞こえなかった。
 昼休み、彼女は研究棟の隅にある資料室に向かった。
 実験データのバックアップは、すべてクラウドに保存されている。
 昨日のフォルダを開く。
 空白だった。
 ログファイルすら存在しない。
 まるで最初から、何も記録していなかったかのように。
 「そんなはずは……」
 震える指で再検索をかける。
 けれど結果は同じ。
 システムのタイムスタンプが示すのは、“削除”ではなく“存在なし”。
 彼女は目を閉じた。
 世界の記録そのものが、時間の巻き戻しによって“上書き”されたのだ。
 午後になると、さらにおかしなことが続いた。
 廊下の照明が、一瞬だけ逆回転した。
 蛍光灯のちらつきが、まるでフィルムを巻き戻すようにスッと消えていく。
 廊下の端にいた清掃員の女性がそれに気づき、首をかしげたが、次の瞬間にはその仕草さえ忘れたようにモップを動かし続けていた。
 世界が、細かく切り取られ、貼り直されているような不気味さ。
 夜。
 洋子は帰宅してからも落ち着かなかった。
 机の上の砂時計を眺める。
 砂の量が、少し減っている。
 確かに前よりも下の層が厚い。
 どれほど時間を戻しても、砂は循環しない。
 減る一方なのだ。
 「エネルギーの保存が成り立たない……」
 そう呟いたとき、部屋の時計が一瞬止まり、次の瞬間、秒針が逆に動き出した。
 ガラスの中の青い砂がわずかに揺れる。
 彼女は息を呑んだ。
 時間を巻き戻さなくても、周囲が勝手に反応している。
 砂時計が、“世界の構造そのもの”に干渉を始めている。
 翌日。
 研究所のモニターに、観測装置の異常値が表示された。
 電子データの一部が、時間軸の前後を入れ替えて保存されている。
 「データが反転している?」
 若い研究員が驚いた声をあげる。
 洋子は画面を覗き込み、目を凝らした。
 波形の上下が反転しているだけではない。時間の軸そのものがマイナス方向へずれている。
 観測データの先端が、“過去”に記録されている。
 脳裏を掠める言葉――「因果のほつれ」。
 砂時計を使ったときの違和感が、世界全体に波及しているのだ。
 小さな干渉が、現実の構造を崩している。
 夜になっても研究室に残った。
 ノートを開き、これまでの経過を記録する。
 「時間を戻すたび、電子データの時系列に乱れが生じる。
 映像、音声、文章など、“記録”という形を持つ情報が欠落する。
 物理的現象ではなく、情報層での消失。」
 ペン先が止まる。
 手が震えていた。
 書いている文字が、わずかに遅れて浮かび上がっていく。
 インクが出る前に、線が見えている。
 ──時間の順序が、筆記の瞬間にすら影響している。
 窓の外では、街灯が滲むように光っていた。
 目を凝らすと、光の輪郭が少しずつ揺れている。
 静止画のように、途切れ途切れに。
 まるで世界が、フレーム単位で再生されているようだった。
 そのとき、机の端でスマートフォンが震えた。
 画面に“水島航”の名前が表示される。
 この時間に連絡があるのは珍しい。
 通話ボタンを押す。
 雑音。
 低いノイズが続いたあと、微かに声が混ざった。
 『……観測……限界……戻すな……』
 そこまで聞こえた瞬間、通話が途切れた。
 画面の時刻表示が逆転していた。
 22:37 → 22:36 → 22:35。
 砂時計が机の上で震える。
 青い砂がわずかに宙に浮かび、螺旋を描いた。
 洋子は両手でそれを押さえた。
 手のひらの中から、熱ではない何かが滲み出る。
 感情そのものが削られていくような痛み。
 目の奥に、薄い青の閃光が走る。
 “世界の記録が削れていく”。
 頭の奥で誰かの声がした。
 それが自分自身の声か、別の誰かのものか、区別がつかない。
 ノートの文字が、目の前で消えていく。
 書いたそばから、ページが真っ白になる。
 ペン先から出るインクの色だけが残り、次の瞬間、空気に吸い込まれて消えた。
 彼女は立ち上がり、机を叩いた。
 「やめて……お願い、やめて!」
 誰に向けた言葉かもわからない。
 砂時計を両手で握りしめる。
 中の砂は、まるで呼吸しているかのように上下を脈打っていた。
 部屋の明かりが一斉に消え、再び点いたとき、
 机の上のパソコンは再起動を終えていた。
 ログイン画面。
 背景画像が見知らぬ風景に変わっている。
 薄い青空。見たことのない大地。
 だが、確かにどこかで見たような気もする。
 洋子は息を整えた。
 恐怖と興奮が入り混じる。
 砂時計をひっくり返せば、この現象を確かめられる。
 だが、もう戻すべきではない。
 世界の“記録層”が崩壊しかけている。
 そう自分に言い聞かせながら、彼女はノートの最後のページを開いた。
 白紙の中央に、ひとつだけ青い点があった。
 砂のような粒。
 それが、かすかに光を放っている。
 指先で触れた瞬間、視界が一瞬だけ反転した。
 すべての色が裏返り、音が遠のく。
 それでも彼女は確かに感じた。
 この青い光こそが、
 “彼ら”が言っていた「記録の断片」なのだと。
 洋子は深く息を吸い、ペンを握り直した。
 ノートの余白に書く。
 ──時間は、戻るのではない。
 ──時間は、書き換えられる。
 ──代償として、記録が削れる。
 そしてその下に、小さく書き添えた。
 『次に砂を使うとき、私は自分自身を失うかもしれない』
 文字を書き終えると同時に、砂時計が静かに光を放った。
 青の輝きが壁に映り、部屋の空気が震えた。
 その震動の中で、洋子は目を閉じる。
 かすかに聞こえる声。
 人のものではない、どこか遠い意識のさざめき。
 ──見えているだろう。
 ──私たちは、すでに同じ記録の中にいる。
作品名:青の砂時計 作家名:唯野眠子