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青の砂時計

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第七章 青の干渉者


 夜の気配が重く、空気の粒まで静止しているように思えた。
 洋子は机の前に座り、目の前の砂時計を見つめていた。
 青い砂は、まるで星雲のようにゆらめいている。
 この砂の中に、時間の情報が閉じ込められている。
 ——そう確信できるようになったのは、あの実験の翌朝だった。
 記録を読み返すうちに、ひとつの仮説が浮かんだ。
 「観測者が情報層に干渉するとき、時間は方向を失う」。
 もしそれが正しいなら、砂時計を操作する行為そのものが、時間を変動させる原因になる。
 つまり、自分自身が“異常現象の発生源”であるということだ。
 彼女はペンを持ち、ノートに書き始める。
 〈観測者=干渉点〉
 〈零時界領域における意識の分岐は、記録層の選択として表れる〉
 〈選択の連続が、私たちの知覚している時間〉
 書きながら、頭の中に奇妙な感覚が広がっていく。
 言葉が、思考より先に現れる。
 まるで“誰か”が、手を借りて書いているようだった。
 文字の並びに見覚えがある。
 あの日、砂時計を初めて見つけたとき、机の上に残されていた未知のメモ。
 「記録の観測者は、やがて干渉者となる」——その文が再現されていた。
 洋子はペンを置いた。
 胸の奥に冷たいものが流れ込む。
 自分がこの理論に導かれている。
 まるで、すでに誰かが同じ思考を通り抜けたように。
 「記録の……再生装置?」
 呟きが空気を震わせた瞬間、部屋の照明が微かに点滅した。
 蛍光灯が一度だけ明滅し、再び安定する。
 空気が異様に重い。
 窓の外は無風なのに、カーテンがふわりと揺れた。
 洋子は砂時計に手を伸ばした。
 青い粒子が光を帯び、ゆっくりと流れ出す。
 その動きを見つめているうちに、感覚が引き延ばされていく。
 音が遠のき、呼吸のリズムが狂う。
 そして、すべての時間が一瞬に重なった。
 ——目の前に“彼ら”がいた。
 光の中に、輪郭の定まらない存在。
 人のようでいて、構造体のようでもある。
 以前、夢の中で見た光の存在。
 その姿が、今度は幻覚ではなく現実として立っている。
 声ではなく、波が届く。
 ──観測者、干渉者、そして同化者。
 ──君はその境界を越えた。
 洋子は身を強ばらせた。
 「……あなたたちは、何者?」
 ──私たちは記録の層。
 ──時間を流すのではなく、記録を維持する構造。
 ──君の世界は、観測という干渉の結果だ。
 その言葉が、彼女の理論と完全に一致していた。
 「じゃあ、私が砂時計を使うたびに、記録が書き換えられていた?」
 ──記録は消えない。ただ、選ばれなかった。
 ──君が戻るたびに、別の層が生成された。
 「別の層……つまり、並行して存在する世界?」
 ──それを君たちは“失われた過去”と呼ぶ。
 ──だが私たちにとっては、同時に存在する記録の束だ。
 洋子は息を飲んだ。
 世界が複数の層として重なり合い、そのどれもが“現実”なのだとしたら、
 自分が今ここにいるという確信すら、単なる選択の結果にすぎない。
 「でも、私は現実を選んだ覚えなんてない」
 ──選択は無意識だ。
 ──観測する行為そのものが選択になる。
 ──君が見ているのは、君が見ようとした世界。
 頭の奥が軋むように痛んだ。
 視界がゆらぎ、光が脈動する。
 床の模様が波打ち、机が呼吸しているように見える。
 世界が、彼らの言葉に合わせて変化している。
 「私が観測をやめたら……この世界は?」
 ──静止する。
 ──だが消えはしない。
 ──記録として残り続ける。
 その言葉の余韻が消えると、光が一瞬にして収束した。
 “彼ら”の姿が溶けるように消えていく。
 部屋には静寂が戻った。
 ただ、砂時計の中で青い砂がまだ逆に流れていた。
 洋子は震える手でそれを掴んだ。
 砂は止まらない。
 流れが上下に入れ替わり、無限に循環している。
 時間が、方向を失っている。
 ふと、耳元で微かな声がした。
 ──観測を続ける限り、君は存在する。
 洋子はその言葉を胸の奥で反芻した。
 存在とは、観測の持続に過ぎない。
 観測をやめれば、自分という記録も静止する。
 そのとき初めて、彼女は理解した。
 “青の干渉者”とは、外部の存在ではない。
 自分自身のもうひとつの層——記録に残された意識の投影。
 砂時計の中の青い砂は、記録層を構成する微細な情報粒だったのだ。
 部屋の時計が午前二時を告げた。
 針の音が、妙にゆっくりと響く。
 洋子はノートを開き、静かに記した。
 〈観測記録 第30項〉
 ——零時界現象は、観測者の意識構造と同期して起こる。
 ——観測とは記録の干渉であり、観測者はその一部にすぎない。
 ——干渉が一定閾値を超えると、観測者の層が分離し、“青の干渉者”として顕現する。
 ペン先が止まり、長い沈黙が落ちた。
 外では風が吹いている。
 カーテンの隙間から、淡い月光が差し込む。
 洋子は立ち上がり、窓の外を見つめた。
 街は静まり返っている。
 すべての建物が、まるで時間を失ったように佇んでいた。
 その光景は、かつて見た夢と同じだった。
 違うのは——今度は夢ではないということ。
 「私が観測している限り、この世界は存在する……」
 その言葉を確かめるように呟いたとき、
 砂時計が光を放った。
 青い砂が逆流を始め、空間の輪郭が再び溶けていく。
 彼女の身体が光の中に滲み、世界の層が反転する。
 ——記録の内側へ。
 その感覚が訪れた瞬間、洋子の視界は完全に白に覆われた。
 そして、音も光も存在しない無の中で、
 かすかに誰かの声が響いた。
 ──君はもう、観測者ではない。
 ──記録そのものになったのだ。
作品名:青の砂時計 作家名:唯野眠子