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青の砂時計

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第六章 時間の記憶


 夜の研究室には、時計の針の音だけが響いていた。
 窓の外はすでに真夜中。都市の灯りも遠く、わずかな月光が机の上を淡く照らしている。
 洋子はペンを握り、ノートの上に走らせた数式をもう一度見直した。
 「零時界——“情報の反転”と読み替える」。
 その仮説を立ててから、数日が経っていた。
 テレビで見た水島の言葉は、頭の奥で何度も反芻される。
 「時間を失うのではなく、記録を失う」。
 彼が語った“記録”という概念が、洋子の中で次第に具体性を帯びてきた。
 時間とは流れるものではなく、記録が更新される順序のこと。
 その順序が反転すれば、世界は過去を再生する。
 彼女の理論ノートには、細かい走り書きが重なっている。
 “情報層の歪み=時間の歪み”
 “観測者の意識は情報の一部か、それとも別層か”
 “もし意識が層を超えて移動できるなら、時間知覚は可逆となる”
 洋子は深く息を吐いた。
 頭が冴えて眠れそうにない。
 ふと視線を上げると、机の隅に例の砂時計が置かれている。
 青い砂が、今も静かに積もっていた。
 「試してみようか……」
 独り言のように呟いて、砂時計を手に取る。
 これまでの実験では、外部機器の記録の欠落や時刻の巻き戻りが確認されていたが、
 今回は、自身の“意識”に焦点を当てるつもりだった。
 彼女は机の上に置いた録音装置を起動させる。
 そして、手元のノートに日付と時刻を記し、砂時計を静かに反転させた。
 砂が流れ始める。
 コバルトブルーの粒子が光を帯び、空気の中をゆっくり落下していく。
 部屋の中の空気がわずかに震える。
 耳鳴りのような微かな振動音が響き、意識の焦点がぼやけていった。
 ——次の瞬間。
 洋子は、何かが“重なる”感覚に包まれた。
 頭の中に、もうひとりの自分がいる。
 それは過去の自分の思考だった。
 昨日の夜、同じ実験を計画していたときの、自分の思考の断片。
 “砂時計を使えば、情報層に干渉できるかもしれない”
 ——その言葉が、脳内で二重に響く。
 まるで二つの意識が同じ座標を占めている。
 どちらが今の自分で、どちらが過去なのか、判別がつかない。
 頭の奥で映像が交錯する。
 書きかけのノート、消した数式、指先の感触。
 記憶が重なり合い、境界が溶けていく。
 「これが……零時界……?」
 声を出したつもりなのに、声が届かない。
 代わりに、別の声が頭の中で応じた。
 “それを知ってどうするの?”
 自分の声だった。
 だが、その声はほんの数日前の“自分”の記憶と同じ調子をしている。
 問いかけられている。
 過去の自分から、今の自分へ。
 洋子は胸の奥がざわめいた。
 ——零時界は、空間の中だけでなく、意識の層にも及ぶのかもしれない。
 それは単なる記録の巻き戻しではなく、“思考の回帰”だ。
 もしそうなら、人間の記憶とは、時系列的に蓄積される情報の連鎖ではなく、
 層構造をもった空間的ネットワークだということになる。
 彼女の意識は徐々に揺らぎ、空間が膨張するような感覚に包まれる。
 時計の音が遅くなり、光の速度さえも変わって見えた。
 目の前の砂粒が、宙に浮いたまま止まっている。
 その瞬間、洋子ははっきりと“自分が二つ存在している”と感じた。
 一方の意識は今を観測している。
 もう一方は、数分前の自分を再体験している。
 ふたつの時間が、同一の身体の中で重なっていた。
 ——もし意識が時間の情報層を越えて重なるなら、
 過去も未来も「観測者の選択」で変化するのではないか?
 洋子はノートに走り書きをした。
 〈仮説補足〉
 零時界領域では、観測者の意識が多層的に分岐する。
 そのうち一層が“現在”を維持し、他層が“過去”の情報層と干渉する。
 干渉が強まると、意識が再帰的に自己を観測し、時間感覚が崩壊する。
 ペンを握る手が震えていた。
 視界の端で、砂時計の青が強く輝く。
 光の波紋が部屋いっぱいに広がり、空気が水のように揺れる。
 ——時間が、記録の層として折り畳まれていく。
 ——その中心に、自分の意識がある。
 洋子は息を吸い、目を閉じた。
 目の裏に、青い光の網のような構造が広がっている。
 無数の線が交差し、点が結びつき、全体が呼吸するように明滅している。
 その網はまるで神経回路であり、同時に宇宙の構造のようでもあった。
 「意識の構造は、宇宙の記録構造と相似している……」
 自分でも信じられない言葉が口をついて出た。
 人間の意識が宇宙の“情報層”の縮図であるなら、
 零時界を理解する鍵は、脳の記憶そのものにある。
 次の瞬間、光が弾けた。
 砂時計の中で最後の粒が落ち、音もなく世界が静止した。
 ……気がつくと、洋子は椅子に座っていた。
 砂時計は元の位置にあり、すべてが元通り。
 録音装置は作動している。
 再生すると、ノイズ混じりの音声の中に自分の声がかすかに残っていた。
 「——意識の層が……重なって……」
 その後は何も録音されていない。
 洋子は顔を両手で覆った。
 あの数分間の出来事が幻覚なのか現実なのか、判断がつかない。
 けれど確かなのは、記憶の中に「もうひとつの自分」が残っているということだった。
 彼女はノートを開き、ゆっくりと書き込んだ。
 〈観測記録 第29項〉
 ——零時界は、情報の層だけでなく意識層にも及ぶ。
 ——観測者がその層を同時に認識したとき、“記憶の共鳴”が起こる。
 ——それは、過去と現在が一瞬だけ重なる地点。
 ペン先が止まる。
 窓の外では、夜が明けかけていた。
 薄い青の光が空に滲み、世界の輪郭が少しずつ浮かび上がっていく。
 その青は、砂時計の砂と同じ色だった。
 洋子は立ち上がり、カーテンを開ける。
 光に満ちた空の向こうで、太陽が昇ろうとしている。
 その光もまた、過去から届いた記録。
 けれど、今この瞬間にしか感じられない現実でもある。
 「記録と現在は、同じものの裏と表……」
 静かに呟き、洋子はもう一度砂時計を見つめた。
 世界はいつも、誰かが観測することで形を保っている。
 もし観測が“記録の選択”であるなら、
 私たちは毎瞬、自分の宇宙を選び直しているのかもしれない。
 砂時計の青が、朝の光に溶けていく。
 洋子は微笑んだ。
 零時界は恐れるべきものではない。
 それは、世界がまだ“記憶している”証なのだ。
作品名:青の砂時計 作家名:唯野眠子