肋骨まで多生の縁
「袖すり合うも多生の縁」という。
あの言葉を考えた人は、きっと満員電車を知らない。
もし知っていたら、
「袖どころか、肋骨まで合ってますが、これは何の縁ですか」
と書き換えていたはずだ。
朝の満員電車では、
人と人との距離はゼロになる。
いや、マイナスだ。
もう“他人”という概念があやしい。
知らない誰かのカバンが腹に食い込み、
別の誰かの肘が肋に刺さる。
顔の前には見知らぬ後頭部。
これは縁というより、人体パズルである。
ここで人は悟る。
正論は、役に立たない。
「自分が先に乗っていた」も、
「そっちが押した」も、
この空間では通貨にならない。
通用するのは、
・諦め
・無言
・呼吸を浅くする技術
この三点セットだけだ。
満員電車とは、
現代人が毎朝参加する修行である。
修行内容は一つ。
キレないこと。
怒れば自分が損をする。
動けばもっと詰まる。
抵抗すれば、知らない誰かとさらに密着する。
こうして人は学ぶ。
世の中には、
頑張らない方がうまくいく場面がある、ということを。
不思議なことに、
あれだけぎゅうぎゅうなのに、
降りる駅に着くと、
誰も振り返らない。
「お世話になりました」もない。
「また明日」もない。
一期一会史上、最も無言で最も濃厚な縁。
袖すり合う縁が風流なら、
満員電車の縁は筋トレだ。
心の。
今日もどこかで、
見知らぬ誰かと肋骨を分け合いながら、
人は静かに、社会を回している。
そう思うと、
満員電車も少しだけ、
笑える気がする。



