魚を釣った人だけが評価される社会
魚を釣った人は称賛される。
大きな魚だ、珍しい魚だ、話題になる魚だ。
人々は拍手を送り、数字と成果を掲げる。
だが、その魚はそのまま地面に放置される。
血抜きもされず、内臓も処理されず、
やがて腐り、悪臭を放ち、
「こんな魚はいらなかった」と言われる。
それでも、釣った人の評価は下がらない。
問題は、魚を釣ることが目的になり、
魚を「生かすこと」が誰の仕事でもなくなったことにある。
加工する人はいる。
包丁を入れ、骨を外し、
食べられる形に整える人がいる。
だがその仕事は地味で、時間がかかり、
失敗すれば責められ、
成功しても名前は残らない。
やがて加工する人は疲れ果て、
静かに現場を去っていく。
残された組織は言う。
「人がいない」
「若手が育たない」
「昔はもっとできた」
だが、魚を放置してきたのは誰なのか。
成果だけを称え、
意味を育てず、
価値を仕上げる工程を切り捨ててきた社会が、
自らの胃袋を壊しただけである。
この社会は、
結果を生む人を英雄にし、
結果を生かす人を消耗品にしてきた。
数字は増えても、
腹は満たされない。
魚は毎日釣られる。
だが、食卓には何も並ばない。
本来、組織も社会も、
釣る人、加工する人、分け合う人、
そのすべてが揃って初めて「生きる」。
魚を釣った瞬間をピークにする社会は、
やがて海を恨み、魚を恨み、
最後は人を恨む。
問われているのは能力ではない。
設計である。
魚を釣った人を称える前に、
「この魚を、どう生かすのか」を
誰が引き受けるのか。
それを決めない限り、
私たちは今日もまた、
腐る魚の前で拍手を続けることになる。
作品名:魚を釣った人だけが評価される社会 作家名:タカーシャン



