SNSという井戸の底で、世界を語る人たちへ
世界を語っているはずなのに、聞こえてくるのは極端に狭い半径の声ばかりだ。
彼らは世界を見ていない。
自分の不安と怒りを、世界に投影しているだけである。
SNSは、無知を露呈させる場所ではない。
むしろ、無知を自信に変換できる装置だ。
知らないことを、調べる必要はない。
理解できないことを、保留する必要もない。
断定すればいい。怒ればいい。
それだけで「意見を持つ人間」に見える。
国際問題は、本来、軽々しく語れる代物ではない。
一国の選択の裏には、何十年、何百年という歴史が沈殿している。
だがSNSでは、その重みはすべて削ぎ落とされる。
残るのは、
「損か得か」
「敵か味方か」
という、幼稚な二択だけだ。
これは知性の問題ではない。
想像力の欠如である。
他国の生活を想像できない。
他民族の恐怖や屈辱を想像できない。
それでも、世界を裁こうとする。
日本社会は長く、
「外を見なくても回る社会」であり続けてきた。
外国人と対話せずとも、
他国の視点を知らずとも、
人生は成立してしまう。
その結果、
自国の常識を疑う筋肉が育たなかった。
SNSは、その未発達な筋肉をむき出しにする。
鍛えていない腕で、世界を持ち上げようとするから、
乱暴で、雑で、危うい言葉になる。
そしてもう一つ、決定的な事実がある。
本当に国際感覚を持つ人間は、SNSで吠えない。
世界を知るほど、
「簡単な答えなど存在しない」ことを知る。
知れば知るほど、
断言することが恥ずかしくなる。
だから彼らは沈黙する。
沈黙した人間は、可視化されない。
結果として、
世界を知らない声だけが、世界を代表しているように錯覚される。
SNSは民主的に見えて、
実は最も思考の浅い声が支配する空間だ。
強い言葉は、考え抜かれた言葉より速く走る。
怒りは、理解よりも拡散されやすい。
そして人々は、
複雑な現実より、
分かりやすい敵を欲しがる。
だが、ここで立ち止まらねばならない。
この構造を放置すれば、
私たちは世界を語れない社会になる。
他国を見ているつもりで、
実は自分の内側しか見ていない。
その姿は、
国際社会において最も危険な存在だ。
SNSの喧騒に違和感を覚える人間が、
まだこの社会に残っていることを、
私は希望だと思いたい。
世界を語る前に、
自分の視野の狭さを疑えるか。
その問いを失った瞬間、
人は世界ではなく、井戸の底から叫ぶ存在になる。
作品名:SNSという井戸の底で、世界を語る人たちへ 作家名:タカーシャン



