転ぶ社会
転ぶことは、単なる身体事故ではない。
それは人生が転落を始める合図である。
にもかかわらず、この社会は
転倒を「不注意」「年のせい」「自己責任」で片づけてきた。
その無関心こそが、次の寝たきりを量産している。
転んだ瞬間、
体力は一気に削られ、
同時に気力も崩れ落ちる。
それは静かな崩壊だ。
病気のように名前もつかず、
事故のように騒がれもせず、
気づいたときには、
人は立てなくなっている。
転倒とは、
人生の警告灯が赤く点滅する瞬間である。
だが社会は、その赤信号を無視する。
歩道は狭く、段差は放置され、
施設は「転ばせない」設計ではなく
「転んだ後に収容する」仕組みばかりが整えられている。
なぜか。
立っている人間より、
倒れた人間の方が
管理しやすいからだ。
動ける高齢者は厄介だ。
意見を言う。
外へ出る。
社会に関わろうとする。
だから転倒は、
社会にとって都合のいい沈黙装置になっている。
転べば、
人は外へ出なくなる。
声を上げなくなる。
「迷惑をかけない存在」へと矯正されていく。
これは事故ではない。
構造的転落だ。
転倒は、
個人の身体の問題ではなく、
社会が人を支えなくなった結果である。
にもかかわらず、
この国は言う。
「自助努力」
「健康寿命」
「自己管理」
だが本当に問われるべきは、
人が転ばずに生き続けられる社会を
用意してきたのかということだ。
転ぶ人を減らす社会ではなく、
転んだ人が
もう一度立てる社会を作れ。
転倒は老いの証明ではない。
社会の劣化の証拠である。
人生が転落する前に、
この国は
足元から立て直さなければならない。



