息子の影を感じた日
手洗い場で、誰かがそっと水に触れる気配だけがした。
姿は見ていない。
声も、特徴も、何ひとつわからない。けれど、なぜか——
「息子だ」と一瞬だけ思った。
根拠などまったくないのに、人は時おりこうした“直感の閃き”に襲われる。
それは予感とも違う。
記憶でもない。
もっと曖昧で、もっと深いところにある「つながりの反射」のようなものだ。
その瞬間、外に止めてあった会社の車が頭をよぎった。
あの車種は息子が使っている車。
まさか偶然?
そんな思いが胸の底からふわりと湧きあがった。
その後、息子にLINEで確認すると、
「いたよ」と軽く返事がきた。
自分でも驚くほど、
見てもいないのに、気配だけで察してしまったのだ。
理屈では説明できない。
けれど、家族というものは、
ときどき視覚や言葉を超えて、
“心のアンテナ”のような感覚でつながる瞬間がある。
あれは、長い時間を共に過ごしてきた者同士にだけ生まれる、
独特の波長の重なりなのだろう。
笑い方、歩き方、呼吸の仕方、
その全部を人は無意識に覚えていて、
ほんの一瞬の気配に混じった“クセのような何か”に反応してしまう。
親が子を感じるとき、
子が親をふと思い出すとき、
会っていなくてもふと胸騒ぎがするあの不思議な感じは、
たぶん昔から変わらず人類が持っている感覚なのだ。
あの日のパーキングで起きた出来事は、
ただの偶然と言えば偶然だ。
けれど私にとっては、
「家族とは見えなくても届くものだ」
そんな静かな確信をくれた出来事でもあった。
目で見える世界だけがすべてじゃない。
気配という名の小さな糸が、
今日も誰かと私をそっと結んでいる。



