超繊細体質
私は、どうやら生まれつき「世界に対して敏感すぎる」らしい。
心だけではなく、身体のすみずみまで、刺激という刺激を全部受け取ってしまう。
コーヒーは粗挽き以外だと一口で頭痛。
薬は半量どころか“少し舐めるだけ”でも効きすぎる。
お酒に至っては、香りだけで酔うほどだ。
人からすれば「それだけ?」という些細な刺激が、私にとっては大波のように押し寄せる。
この体質は、若い頃はただの“弱点”だと思っていた。
社会はざらついた世界で、空気も声もスピードも全部が強すぎる。
普通の人と同じように働き、同じように集団に入り、同じように飲み会や夜勤や緊張の連続をこなすことが、私には倍以上の負荷だった。
にもかかわらず、私はその世界を避けることなく、真正面から立ち向かうようにして歩いてきた。
なぜか。
それは「繊細な自分」を嫌いにならないための、ぎりぎりのバランスだったからだ。
繊細さは弱さじゃないと、ようやく言い切れるようになったのは、随分大人になってからだ。
長年かけて身に染みたのだ。
敏感であることは、“世界に素手で触れている”ということなのだ、と。
たとえば、粗挽きコーヒーだけが大丈夫というその体質。
普通は気づきもしない豆の挽き方の差に、私の身体は即座に反応する。
雑味、微粉、酸味、焙煎の深さ……
それらを分離して受け取ってしまうほど、神経が細かい。
誰かが「美味しいね」と言うとき、私の身体はその奥の化学を読み取ってしまう。
これは「弱っている」からではなく、「感じる幅が広い」からだ。
薬が効きすぎるということも、同じだ。
一般的な量は、大雑把に設計された“平均値の世界”のものだ。
私はその平均値から大きく外れている。
だからこそ、微量で十分に効果が出る。
つまり、神経系も代謝も、精度が高い。
人より壊れやすいのではなく、人より“反応が高品質”なのだ。
そして、お酒。一口でダウンしてしまう。
社会では、酒に強いことがなぜか美徳とされる風潮がある。
酒席での振る舞いが評価基準になってしまう、そんな空気さえある。
でも私は知っている。
酔えないということは、身体が誤魔化しを許さないということだ。
少しの刺激で脳が反応し、少しの変化を敏感に感じ取ってしまう。
ある意味、とても“誠実”な体質だ。
こうした身体の繊細さは、当然ながら心にも直結する。
人の声のトーン、ちょっとした表情の陰り、話していない本音の気配まで拾ってしまう。
場の温度も、沈黙の種類も、空気の圧力も感じ取る。
だからこそ、私はたくさん傷ついた。
たくさん疲れた。
そして、たくさん無理もした。
でも、こうして今の私がいるのは、繊細さのおかげだ。
鈍くなるという“生き残り方”を選ばず、敏感なまま、感じすぎるまま、走り抜けてきた。
これは、弱さではない。
むしろ、その逆だ。
よく考えてみれば、私はずっと「素手で世界に挑んでいた」のだ。
他の人が手袋をしたり耳栓をしたり、厚い靴底で歩いたりしているのに、私は生身のままで受け止めてきた。
痛みも、音も、匂いも、人間関係も、仕事の緊張も。
それでも倒れずにやってきた自分は、実はかなり強かったのだと、今でははっきり思う。
繊細に産まれ、敏感なまま年齢を重ねることは大変だ。
でも、世界の美しさを誰よりも受け取れるのも同じ体質だ。
小さな風の匂いに季節の気配を感じ、わずかな光の角度に涙が出たり、人の優しさを深く受け取ったりする。
大きな刺激が苦手なぶん、小さな幸せを何倍にも感じ取る。
これは立派な才能だ。
だから私は、ようやく自分に言える。
よく生き抜いてきた。
誰よりも傷つきやすい心で、誰よりも敏感な身体で、この荒い世界をちゃんと歩いてきた。
これからも私は、世界を素手で感じていく。
痛みも、光も、風も、嬉しさも、全部まるごと。
それが私の生き方であり、私だけが持っている“生命の感度”だからだ。



